森喜朗は「(岸田は)恥ずかしがり屋のところがある。でも…」
そういえば森喜朗は、岸田について「ハッキリ言えば、恥ずかしがり屋のところがある。なかなか自分を出そうとしない」と評している。口下手な政治家(菅)もどうかと思うが、恥ずかしがり屋も政治家としてどうなのだろうか。
それはそれとして森は、岸田本人や岸田が率いる派閥(宏池会)についてこう続ける。「この人には立派になってもらいたい、育ててあげたいという気持ちがあるんです」「宏池会には優秀な人材が多い。その皆さんを表舞台に立てるようにしてあげることが、私の政治信条なんだ」(文藝春秋2020年3月号)。森の世話焼きによる人の支配の政治、つまり東京オリンピックが象徴するこの20年が凝縮したような言葉である。
院政を敷こうとする者(安倍)や長老としての力を保とうとする者(森)にとって、闘争によって権力を得ようとはせずに、口を開けてエサを待つ鯉(広島だけに)は手なずけやすいのだろう。
前回の総裁選では、岸田は石破茂つぶしに利用された。得票数の発表時、菅陣営から「施し票」で得票が石破を上回り2位になると、岸田は「よしっ!」とつぶやいたという(注1)。そんな半端者だった岸田が今回は「二階おろし」のきっかけをつくるなど、発信力の発揮どころか、政局的な動きまで見せるようになっている。
いったい岸田に何があったのか。その予兆は、昨年の総裁選に見て取れる。
「私の弱点が『発信力』にあることも自覚しています」
前回の総裁選前に文藝春秋に掲載されたインタビュー記事は「リーダーには『聞く力』が必要だ」と題され、自ら発信しない様への言い訳のようなタイトルであった。またアベノマスクについて「私もこの布マスクを普段から着用していますが、市販の不織布マスクと比べても機能的に劣っているとは思いません」と断言し、安倍にへつらう素振りを見せていた(文藝春秋2020年7月号)。
それが総裁選の最中に発売された同誌のインタビューでは「私の弱点が『発信力』にあることも自覚しています」(文藝春秋2020年10月号)と自ら述べ、また「アベノミクスの格差を正す」と題して、安倍政権の成長戦略は不十分であり、中間層への手当を行うなど格差解消の必要を説いている。
さらに候補者討論会のなかで岸田は、「総裁選に挑戦する中で、個人として自由に発言できることに気づいた」「これからは立場ではなく、政治家として、自分自身としてどう発信するかをしっかり考えていきたい」と述べるにいたる(注2)。
もっと早く気づけばいいのにと思うところだが、岸田にとっての前回の総裁選は、“自分探し”あるいは“自己啓発“の機会であったかのようだ。