『新しい日常』を描く物語として映画を再構成
そうした上白石萌歌のリアリティはこの映画の主人公の「奇妙だが普通」な人物造形に生かされている。主人公の朔田美波は水泳部のスポーツ少女だが、テレビアニメ『魔法左官少女バッファローKOTEKO』の熱烈なファンであり、屋上でアニメキャラの巨大な絵を毛筆で描く書道部の少年・門司昭平と知り合い、友人になる。
僕たちの世代の感覚では、この設定なら物語は『アニメファンと一般生徒の距離』『運動部と文化系のギャップ』『男子と女子の距離』を中心に進むのだろう、という予測を持って観てしまうのだが、主人公の美波と少年門司は「運動部のスポーツ少女が熱烈なアニメファンであることも、文化系男子と運動部の女子がアニメを通じて友達になることも、少年の家族が性別適合手術を受けたことも、特に騒ぐほどのことではなく当たり前のことだから」というように物語の日常を生きていく。
沖田修一監督はこの『子供はわかってあげない』を映画化するにあたり原作のセリフや場面をかなりカットしているのだが、無駄な部分をカットするのではなく、普通なら名場面や名台詞として残したくなるような部分もあえてカットしている。
もともと原作の漫画版はシリアスなテーマをあえて肩に力を入れず、オフビートに語る文体が優れた作品なのだが、そこからさらにドラマチックな「物語の山」をあえて削って平坦にならし、いっそう飄々とした『新しい日常』を描く物語として映画を再構成している。
上白石萌歌と細田佳央太の若い俳優の生命力
それはこの映画の書道少年・門司を演じる細田佳央太の出世作となった映画『町田くんの世界』が描いた、スクールカーストとディスコミュニケーションに縛られた若者たちの世界を打破する物語の先に広がる光景だ。
「今の世代の子たちはもうこんな感じだよ」という人もいるだろうし、「いやなかなかここまではいかないよ」という人もいるだろう。だからこれは未来の物語とも言えるし、もう始まりつつある現在の世代の物語とも言えると思う。その「半分未来で、半分現在」の新しい日常の物語にリアリティを与えているのは、上白石萌歌と細田佳央太という、二人の若い俳優の生命力だ。