1967年に設立されて以来半世紀以上にわたり、海外アーティストを招聘し、日本におけるコンサート事業を牽引してきたウドー音楽事務所。同社で長きにわたりアテンドを担当した重冨章二氏は、これまでに“伝説級”のアーティストたちの素顔をすぐそばで見てきた人物だ。
ここでは、『洋楽ロック史を彩るライヴ伝説 ウドー音楽事務所の軌跡を辿る』(シンコーミュージック)の一部を抜粋。音楽ライター赤尾美香氏が重冨氏に行ったインタビューのもようを紹介する。
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荷物の積み下ろしからステージ周りまでなんでもやった新人時代
──ウドーさんへの入社は1979年11月と伺っています。
重冨 そうです。それまではキョードー東京にいました。11月1日からウドーに移ってすぐエリック・クラプトンやボニー・タイラーが来て、12月にはリー・リトナーが来て、僕はボニーにつきました。
キョードー東京に入ったのは69年で、それ以前は京都のホテルにいました。まだ若かったから、キョードーのスタッフがアーティストを連れて宿泊するのがカッコ良くてね。憧れですよ、単純に。たまたまホテルの先輩たちが東京や大阪のキョードーに転職していたから、お願いしてみたんです。でも、具体的にどんな仕事か分かっていなかったから、入った途端に大変で、「こんな世界だったか……」と思ったんですけどね(笑)。
スティングは個人的にボディガードを雇って来ていた
最初の頃は、今では考えられない環境で、音響さんも、照明さんも、もちろん舞台屋(舞台監督)さんもいないし、僕らはアーティストを連れて、楽器とスーツケースを持って電車で回るんですよ。いわゆるドサ回り。荷物の積み下ろしからステージ周りのことまで、全部ひとりでやりました。おかげでアーティストのことも、ステージのことも分かるようになりました。それは、よかった。
──80年代になると、ほぼ毎月1本以上は来日公演を行なっています。重冨さんご担当のスティングは、80年のポリス初来日から現在まで何度も来日しています。
重冨 最初に会った頃のスティングと今の彼では、まったく違いますよ。この前来日した時、「ラーメン食いに行こう」という話になり、その時に「知り合って何年になる?」って聞かれて、「初めて一緒に仕事をしたのは80年だから……」と答えたんだけど、もう40年になるのか!と、自分でも驚きました。うちもありがたいけれど、彼らも40年間ずっとビジネスができているって、すごいことだと思います。