不良生徒たちが揃った弱小ラグビー部がわずか6年で全国優勝を果たす……。「伏見工業高校」は、閉校した今もなお日本ラグビー界で数々の逸話を語り継がれ続ける伝説的な学校だ。その代表的なエピソードに、高校ラグビー界の強豪「花園高校」との死闘がある。
ここでは日刊スポーツ記者の益子浩一氏による『伏見工業伝説 泣き虫先生と不良生徒の絆』(文春文庫)の一部を抜粋。伝説の一戦の裏話を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
◆◆◆
たった一度だけ、平尾はラグビーを辞めかけた
まだ中学の卒業式を終えたばかりの3月末のこと。ラグビー部に入る新1年生が集められ、奈良県の天理市で合宿が行われた。そこで、平尾(編集部注:後にラグビー日本代表にも選出される平尾誠二氏)は新3年生が主体のAチームに抜擢された。それほど、能力は突出していた。
誰もが認める才能だった。だが、たった一度だけ、平尾はラグビーを辞めかけたことがあった。入学から1カ月ほど過ぎた5月。突然、グラウンドに姿を見せなくなった。それは、1週間ほど続いた。過酷な練習と、過度な重圧に耐えられなくなっていたのだろう。誰よりも期待をしていたからこそ、山口の要求も厳しかった。多くを語り合うことはなくとも、長い間、ハーフ団を組んでいた高崎には、その心境がよく分かった。
「平尾は、練習がきつくて嫌になったと言っていたんやけれど、本当はそうではない。山口先生にしばかれて、嫌になったんです。先生は、『コイツを育てる』と決めると、ある時期、どこかですごく厳しく指導することがある。それを乗り越えた時に、その生徒に任せるようになるんです。それが、あの時の平尾やった」
しばらくすると、平尾は何事もなかったかのようにグラウンドに顔を出すようになった。休んでいる期間、山口が毎日のように練習後に平尾の自宅を訪ね、ラグビーへの情熱と、日本一への夢を語りかけながら、閉ざされそうになった心をほぐしていた。それからというもの、これまで以上に、目の色を変えて練習に取り組んだ。そして、1年生ながらレギュラーの座を揺るぎないものにした。
夏合宿では、その年の冬に全国制覇を達成する國學院久我山高校を練習試合で破った。初の全国大会出場への機運は、現実的なものとして高まっていった。
1978年11月19日、西京極総合運動公園。全国高校ラグビーの京都予選決勝は、当然のごとく花園高校が相手だった。3年生に山本、2年生に大八木、そして1年生には平尾がいた。練習量で培われた体力と闘争心、そして選手層までも、全国大会の扉を開くにふさわしいチームになっていた。