人気ドラマ『スクール☆ウォーズ』の主人公・大木大助のモデルとなった山本清悟氏。中学生の頃から札付きの不良として知られていた彼だったが、高校入学後ラグビーとの出会いをきっかけに人生を一変させた。

 しかし、そんな山本氏も大学進学後は過酷な練習環境に、「ラグビーから逃げ出したい」と考えるようになったという。そんな思いを踏みとどまらせた人物とはいったい誰だったのか。日刊スポーツ記者・益子浩一氏の著書『伏見工業伝説 泣き虫先生と不良生徒の絆』(文春文庫)の一部を抜粋し、紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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「悪いヤツの気持ちが分かるのは、お前しかいない」

 年が明けた1978年。3年生になった山本とともに、2年生の大八木も高校日本代表に選出された。後に伏見工業を日本一へと導く、平尾誠二が入学した年でもあった。

 大八木は真面目な少年だった。社会人になると、強面な風貌がトレードマークになっていたが、高校ジャパンで一緒にイングランドに遠征した山本は「ああ見えて、気が弱い奴でね」とその人柄を明かしている。大工だった父の背中を追い、建築科に入学した。根っからのワルだった山本とは違って、ラグビー部に勧誘された際には、素直に「そうします」と二つ返事で受け入れた。荒くれ者が集う伏見工業の中では、決して目立つ存在ではなかった。

 それでも、入学した15歳で既に身長は180センチを超えていたから、力には自信があった。ボート部の顧問をしながら、ラグビー部の手伝いもするようになる藤井は、グラウンドに出ると、しばしば相撲を取った。

「大八木はとにかく体が大きかったから強かった。でも、こちらもまだ若かったから、相撲で負けてはいられない。向こうは勝つまで挑んでくる。10回やると、10回とも私が勝ちましたけどね。それでも、なかなかのもんでした」

 3年に山本清悟、2年に大八木淳史。2人の高校ジャパンを擁するようになっても、その年も、伏見工業は花園高校の前に屈した。山本は高校3年間、一度も全国大会の扉を開くことなく、伏見工業のジャージーを脱いだ。進路を決める際、就職が頭をよぎったが、山口からこう諭された。

高校日本代表に選ばれた山本清悟氏(2列目左から3人目) 写真=山本清悟氏提供

「悪いヤツの気持ちが分かるのは、お前しかいないやないか。そういう生徒を救ってやってくれ。お前は、教師を目指すんやぞ」

 自分を更生させ、成長させてくれた恩師の言葉に従った。断る理由など、どこにもなかった。山口の母校である日本体育大学への進学を決め、子供の頃から過ごした京都を離れた。1979年の春だった。

 東海道新幹線の新横浜駅から電車を乗り継ぎ、東急電鉄の青葉台駅からバスで10分ほど揺られたところに、日本体育大学ラグビー部の寮はあった。4人部屋での共同生活。練習時の雑用だけでなく、食事に風呂、洗濯。生活のほぼ全ての時間が、厳しい上下関係の下に成り立っていた。