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 日体大は山本が入学する3カ月前の正月に、大学選手権で明治大学を破って優勝。日本選手権では新日鐵釜石に0―24で敗れたものの、大学では一、二を争う強豪だった。ちなみに、この1978年度から、「北の鉄人」と呼ばれた新日鐵釜石の7連覇の偉業が始まっている。

 伏見工業で厳しい練習には慣れているはずの山本でさえ、日体大の“しごき”はこたえた。それに加え、古傷を抱えた体は悲鳴を上げていた。

 高校2年時の近畿大会。近大附属高校との一戦で、後ろから激しくタックルに入られた際に腰を負傷し、ヘルニアを患って入院した。それから、思うように体が動かなくなっていた。

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「あれから極端にスピードが落ちてしもうた。だいぶ腰に負担がかかっていたから、右足でけんけんをすることすら、できんようになっていた。それからやね、自信がなくなってしまったのは。どこかでラグビーから逃げ出したいと、ずっと考えとった」

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日体大ラグビー部の初合宿で脱走

 大学1年の8月。長野県の上田市と須坂市にまたがる標高約1400メートルの菅平高原は、真夏でも最高気温は約25度と涼しかった。そこで日体大ラグビー部は、20日間も続く恒例の夏合宿を張った。集合日には、各自が三々五々、高原にある掘っ立て小屋の合宿所に集まってくる。山本は、京都から名古屋を経由し、菅平高原へと向かった。

 バスに揺られながら山並みを眺めていると、憂鬱な気分になった。山道の急カーブで車体が大きく揺れる。すると、針で刺されたような鋭い痛みが腰に襲いかかってくる。その度に腰をさすった。長く、厳しい合宿のことを考えただけで、また深いため息が出てきた。

 この頃の大学の体育会は、1つ学年が違うだけで奴隷のような扱いをされるのが普通のことだった。ただでさえ気性が荒い山本にとって、そんなことも受け入れがたい現実としてのしかかっていた。

 菅平高原が近づき、ラグビーポールのあるだだっ広いグラウンドが見えてくると、チェッと舌打ちをした。そして、「ホンマに帰ったろうかな」とつぶやいた。

 その日は夕方から、体をほぐす程度の軽い練習だけだった。翌日の朝早くから、まるで地獄のような厳しい走り込みが始まった。腹の底から荒い息を吐き、走りながら、自問自答を繰り返した。

「俺はなんで、こんなに苦しいことをしているんやろうか。なんのためにラグビーをしているんや? もう、無理や」

 高校時代なら、すぐ側に山口がいた。そんな心を見透かし、すぐに「清悟!」と呼んで、尻を叩いてくれた。そんな恩師は、もういない。心の緩みは、自分で戒めるしかなかった。だが、山本には、それができなかった。

 午前中の練習が終わり、部屋に戻る。湿気を吸い込んだせんべい布団と、汗が染み込んだジャージーが、乱雑に積み重ねてあった。疲れ切った部員はみな、仮眠をとっていた。