だからこそ、高校2年になった頃には、山口は平尾の自主性に任せた。ラグビー部にも顔を出していたボート部顧問の藤井が、疑問に思ったほどだった。
「ボールを持ったら、平尾はなかなか離さなかったから、山口先生に『あいつは、パスをせんでいいんですか』と聞いたことがあるんです。そうしたら、『アイツはあれでいいんや』と言っていましたね。平尾はボールを持って、試合をコントロールできる。だから、とことん育てるつもりやったんでしょうね」
4年前とは真逆の展開となった花園戦
平尾が高校2年になった1979年は、例年よりも冬の訪れが少しばかり早かった。11月25日。その日は寒く、京都の山にうっすらと雪がかかっていた。
前夜、山口はなかなか眠りにつけなかった。布団にもぐっては起き、仕方がないから台所にあったウイスキーに口をつけては、また布団に入った。そんなことを、何度か繰り返していた。この年もまた、全国高校ラグビーの京都予選決勝は、花園高校が相手だった。春の高校総体では60―4で圧勝していたから、周囲の目は、いよいよ伏見工業の全国大会出場を待ち望んでいるようでもあった。その期待が重圧となり、眠りについたのは、窓から朝日が漏れてきた頃だった。
西京極総合運動公園の通路で、山口と選手は円陣を組んだ。目を閉じる。そして、全員で手をつないだ。浮かんできたのは4年前の残像だった。次々とトライを許し、0―112で敗れたあの日の記憶。「勝ちたい」と泣いた小畑の叫び─。今、隣にいる仲間だけではなかった。荒れた不良たちが、一つの楕円のボールに惹かれ、山口に惹かれ、花園高校を倒すという目標を抱いて更生していった。
その目標は、小畑道弘も、山本清悟も、その他多くの不良たちも、達成することができずに巣立っていった。
長く、険しい道ではあった。
「今まで、ご苦労さん。よう辛抱して、俺に付いてきてくれた。今日という一日のために、今までの辛く、厳しい練習があった。仲間を信じ、自分を信じて、全てを出し切ろうやないか。お前たちのそばには、たくさんの先輩、仲間がついている」
山口の言葉を胸に15人が、グラウンドに飛び出していく。そして、試合が始まった。
スクラムを組む。ズルズルと後退したのは、花園高校の方だった。スクラムからバックスへボールを展開する。スタンドオフの平尾から始まるオープン攻撃は、流れるように美しい軌道を描いた。それはまさしく、努力の結晶だった。
4年前とは、真逆の展開になった。次々とトライを重ねたのは伏見工業であり、劣勢に立たされたのは花園高校だった。