やはり、試合は1点を争う激しい展開になった。前半は3―4で、1トライを挙げた花園高校がリード。勝負を分けたのは、微妙な判定からだった。後半、相手の反則と思った伏見工業の選手の足が、一瞬、止まった。
笛は鳴っていない。その判断が、致命傷になった。再びトライを許して突き放される。ノーサイドの笛が鳴った時、スコアボードに記されていたのは、辛い結果だった。「伏見工業6―12花園高校」。初の全国大会の夢は、目の前で、遠くに離れていった。
天神川に投げ捨てられた準優勝のトロフィー
試合後の表彰式、準優勝の記念トロフィーが全員に贈られた。悔しくて、むせび泣く選手たち。11年連続の全国大会出場を決めた花園高校との差は、ほんのわずかだった。届きそうで届かない。だからこそ、その差が、絶望的なものとして感じられた。
夕暮れの帰り道、会場から阪急電車の西京極駅へと続く道を歩く。誰も口を開く者はいなかった。電車が走り去る音が、やけに大きく響いていた。一人、離れて歩いていた平尾は、天神川に架かる橋に差し掛かると、手に持っていた準優勝のトロフィーを川へ投げ捨てた。
それからというもの、今までにも増して血の滲むような努力をするようになった。伏見工業から、山口の自宅のある阪急桂駅の途中に、平尾の自宅はあった。練習の指導を終え、学校の用事を済ませてから帰路に就く。電車の車窓から何気なく、外を眺めていると、街灯を頼りに暗い路地を走る平尾の姿を見つけることがあった。
帰宅して夕食を済ませると、近所の公園でキックの練習をこなし、夜道を走るのを日課にしていた。その光景は、いつまでも山口の脳裏から離れることはなかった。
「電車で平尾の家の近くになると、よう一人で走っているのを見ましたね。厳しい練習をさせとったが、家に帰ってからもまだやっていた。それは大学(同志社大)に行ってからも変わらんかった。『おっ、また平尾がやっとる』。そう思いながら、彼が走っている姿を見つけるのが、楽しみやった」
山口の妻である憲子もまた、当時の記憶が残っている。
「よく天才だと言われますよね。でも天才というよりは、本当に努力をする子でした。人にはそれを見せなかったけれど、平尾君のお母さんからも、いつも公園でボールを蹴っていると聞いたことがありました。人知れず努力をして、天才と呼ばれるまでに自分自身を磨いていたんでしょうね」