文春オンライン
電子版TOP

富野由悠季が明かした宮崎駿作品への“違和感” 巨大ロボット物アニメを生業にしてきた男が創作についての“持論”を語る

『アニメを作ることを舐めてはいけない -「G-レコ」で考えた事-』より #2

富野 由悠季 2021/10/07

 それらアニメのシンプルでビビッドに感じられる描写とテンポは、寓話を描くにも万能の性能があると教えられるからだ。

 幼児に向けてのものだから、哲学がないのはいけないという言い方があるのだろうが、そうだろうか? 原理的(寓話的とも)な物語もデジタル・アニメで描けるのだ。ということであれば、幼児向けのデジタル・アニメは新境地であるのだから、願わくば、品格のある作品であってほしいものだ。

アニメから考えた技術論と文化論

 だいたいこんな年寄りが、巨大ロボット物の企画から演出までやることがおかしいのだが、ほかにできることがないからやるのだし、せっかくやらせてもらえるのなら、アニメから考えた技術論、文明論というものを作品に封じ込めておきたいとも考えた。(偉そう!)

ADVERTISEMENT

 ぼくがそのように考えられるようになったのも、前項までに記したとおり、アニメの性能に好感を持てるようになったからだ。

 過去にそれなりの数の宇宙SF物の作品があったおかげで、それらのジャンルを追いかけたいと思ったからでもあるのだが、不勉強なぼくはそれらの作品の端っこをチラリとしか見ていない。SF小説を読まなくなったのは1980年代からで、その理由は、SF小説はゴミ問題を予見できなかったという論評を読んだ頃からで、SFは未来予測はできず、ファンタジーと断定するようになったからだ。

経済成長と巨大ロボット

 それでも第二次大戦の敗北後の日本が、戦後復興の礎にしたのが科学技術の振興という国是にのって急速に経済発展をさせ、ジャパンアズナンバーワンになっていく過程にあったから、一時期はメカ物というものに惹かれた。

ADVERTISEMENT

 三種の神器といわれる家電製品(白物とも)と自動車産業が国家をささえ、日常もそのような道具にかこまれれば、巨大ロボット物はリアルな未来的道具として奇異に見られても、子供のファンタジーとしての存在は容認された。

 だから、ぼくは動画という映画的技法をつかっている媒体なら、映画として発表できるものを創りたいと考えて、テレビの仕事の延長で映画をやらせてもらった。

 この考え方なら現実の延長線上の仕事なので、ぼくのようなタイプの人間にもできた。経済成長のおかげなのである。

 しかし、そのフィールドで時代に即応し、膨大な作品群がならぶようになれば、爪弾きもされるし、取り残されたくないという衝動もおこって、『G-レコ』を担ぎ出したのだ。