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聖母マリアかお前は

 そのうちアフターも付きあってくれなくなった。冷静になると彼女の言動にはおかしな点がいくつもあった。そもそも彼女のような絶世の美女がキャバクラで働かなければならなくなった背景には当然、不可抗力的な事情があり、それは交通事故で親の軽自動車を壊してしまったので修理しなければならないというきわめて説得力に満ちあふれたものだった。

 店に通いはじめた当初の私はその話を、聞くも涙、語るも涙、お父さんの車のために不本意にも肉体的に過酷な夜の仕事を耐え忍ぶなんてなんと美しい心の持ち主だろうか、容姿ばかりではなく心まで美しい、聖母マリアかお前は、と共感し崇拝していたのであるが、しかしよく考えればそんな話、嘘っぱちの戯言に決まっている。彼女は、なにしろ1日27本の指名が入るような女なのだから(ちなみにそれは今でもまちがいないと確信している)、軽自動車の修理費用などとっくに払い終えていておかしくない。そのほかにもいろいろと言葉や態度に矛盾した点があり、ついに私は気付くにいたったわけである。そうか、俺は騙されていたのかと。

 夜の女が綺麗に見えるのは店内の照明が絶妙な加減で薄暗く調整されており、女の顔が昼間ほどはっきり見えないからである。それにくわえてこっちはアルコールが入って判断力が曇っており、それまでのキャリアで磨いた女の見事な会話術もブレンドされて、ああすげえ美人だ、これはいける、今日はまちがいなくいけそうだなどと思ってしまう。

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 月のやり口もまったく同じだった。

極夜行 (文春文庫)

角幡 唯介

文藝春秋

2021年10月6日 発売