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「うまくいかないのは自分のせいではない」でストレス緩和

 イケてない自分の現実と向き合うことほど、精神が削れることはありません。上手くいかない責任を誰かに押し付けたり、陰謀論を語ることでストレスを減らそうとするその魔法の呪文が「親ガチャ」なのだとも言えます。もちろん、就職氷河期やロストジェネレーション的なアプローチもありますし、その意味では私も氷河期世代ですし、第2次ベビーブーム世代はバブル崩壊後に社会に出て、その後ほとんど好況を経験することがない人たちが少なくないのも特徴です。希望が見えない、うまくいかないのは自分のせいではないのだ、と言えればどんなに楽なことか。

 他方、罪のない母子が亡くなってしまった自動車事故で、運転していた高齢の人物が叙勲までされた経歴が晒されると「不逮捕特権のある『上級国民』だ」との言説が流布したこともありましたが、これもある種の「自分の属性ではない誰か」であると線引きをして安心をしようとする作用があります。自分ではない誰かというレッテルを貼って安心しようとする精神の動きとたいして違いはないのかもしれません。

配られたカードでやっていくほかない

 私の大好きなスヌーピーの名言で、「配られたカードで勝負するしかないのさ」という言葉の重みを感じます。犬にそんなこと言われたくねえと思う一方で、この拭い去りがたい自己責任論の裏側には、自分の人生は自分で決めるしかなく、幸せに生きようとするためには、誰かに助けてもらうことはできず、何が自分にとって幸せかを考え、自分にできることは何かを突き詰めていきながら日々を悔いなく過ごすほかないのだとも言えます。

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©️iStock.com

 社会が悪い、政治が悪い、コロナが悪い、医者が悪い、学校が悪い、会社が悪いと誰かの責任にしたところで、人が人と生きていくのが現実である以上は、誰かの責任に転嫁しても自分が不幸であることには変わりはない。自分の幸せは自分の気持ちの持ちようだという陳腐な言葉ですらも、せめてもの支えにしながら「自分の持つ資産や能力でできること」「自分が提供できる価値は何か考えること」を一歩一歩積み重ねていくほかないのでしょう。

 この「人生は配られたカード論」はある種のマッチョリズムを秘めながらも、でも自分の人生を他人や行政がどうにかしてくれるほど、世の中は暖かくはないかもしれないという危機意識を持って、できることをやって生きるしかないという現実も示すのです。