文春オンライン

「親ガチャ」「人生のネタバレ」議論に見る、隣の芝の青さ

「たかしくんのお家がそんなに良いなら、たかしくんの家の子になりなさい」の破壊力

2021/09/24
note

子どもの「大ハズレ」にならないよう、目下努力中

 反面、親父の奔放な生活で苦労した家庭で育ったがゆえに、私の子どもたちにはそんな苦労はさせたくないと思って、銀座のクラブや六本木麻布のラウンジにはほとんど足を踏み入れずギャンブルもやらず酒も宅飲みメインになって品行方正に発泡酒飲んでソシャゲを楽しむ私は、自分の努力で子どもにとっての「親ガチャ」は「大ハズレ」にならないよう努力をしている最中です。せめて子どもには学歴で苦労しなくて済むよう、子どもたちに嫌がられても勉強しろしろと日々言い聞かせるのはいいことなのかどうか。

 その点では、誰もが「親ガチャ」なる単語があれば、その強いワードゆえに気持ちを揺さぶられるのは当然でしょう。

 もしも親がもっと裕福だったら。凄い運動能力を引き継いで生まれてきていたら。自分がもっと賢かったら。こんなクソ田舎に生まれ落ちてなかったら。あるいは、日本ではなくもっとほかの国の、幸せそうなところで生まれていたら。

ADVERTISEMENT

 そもそも「親ガチャ」を考えるに、独身時代にせめてもと思い児童養護施設に定期的に寄付をしていた際、明らかに親子間のコミュニケーションを満足に取れない両親のもとに生まれた悲しい境遇の子どもたちが元気に遊んでいる姿を見て、「あ、彼らのために何ができるだろうか?」と強く感じたのを思い出します。

衰退しつつあるとはいえ、日本はそこそこ幸せな部類なのだが

 客観的には、衰退しつつあるとはいえ、文明国の日本で人権に守られてそこそこ安定した社会で飢えることなく暮らせているだけで、本当は人類としては幸せな部類なのかもしれません。当たり前のようにまあまあ食べることができ、人間関係や仕事で気苦労はあるけれどどのような人生の選択も一応可能になっている自由は、必ずしも当然のことではありません。もうすでに得ていたものは、それを得るために苦労した先人がどれだけ議論し、働き、築き上げてきたのかも知らずに当然の権利であるかのように思うのはしょうがないのかもしれない。

 そんな恵まれた現代日本に生まれても、その隣で生きている人は自分よりも裕福そうだ、幸せそうだ、モテそうだ、人望が厚そうだ、ちくしょう、もっと俺もいい暮らしがしたい、幸せになりたい、モテモテでありたいというのは人情です。生きてるだけで丸儲けと思うほど諦めきれず、自分のしたいことができていれば満足と割り切ることもできない現代社会はとかく人と比較され、幸せそうな人の情報が垂れ流され、もっと良い暮らし、素晴らしい人生があるのだと思い知らされます。