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2021/10/12

source : 週刊文春出版部

genre : エンタメ, スポーツ, 読書

「俺に話なんか訊かなくても記事が書けるじゃねえか」

「ここから毎日バッターを見ててみな。同じ場所から、同じ人間を見るんだ。それを毎日続けてはじめて、昨日と今日、そのバッターがどう違うのか、わかるはずだ。そうしたら、俺に話なんか訊かなくても記事が書けるじゃねえか」

 落合はにやりと笑うと、顔を打撃ケージへと向けた。

 視線の先には森野がいた。落合は、練習では誰もが羨むような打球を放つことができるのに、その他大勢の一人に甘んじている男のスイングを見ていた。暑くないのだろうか、汗ばむような生ぬるい空気のなか、ジャンパーを羽織ったまま、じっと見ていた。まるで景色や物を眺めるような目だった。

森野将彦選手 ©文藝春秋

 どれくらいそうしていただろう。その間、落合は一言も発しなかったが、私の頭のなかでは様々な疑問がグルグルと巡っていた。

 なぜ落合は急に選手たちから距離を置いたのだろうか。

 遠く離れたそこから何を見ているのだろうか。

 そして、なぜ私に「見ること」について語ったのだろうか。

 森野のバッティングが終わると、落合は背をもたせかけていたフェンスから身体を起こした。

「一年間続けてみろ。そうしたら選手のほうからお前に訊きにくるようになるはずだ。僕のバッティング、何か変わっていませんかってな」

 落合は末席の記者にそう言い残して去っていった。

 私はその場を動くことができなかった。思考だけが巡っていた。自分で浮かべた問いに対する答えはほとんど得られなかったが、ひとつだけ確信したことがあった。

 やはり、2年目の落合は意図的にチームから遠ざかっているのだ。何かを見つけるために、俯瞰できる場所から定点観測をしている。だが、それがどうしてなのかはやはりわからなかった。

 それから私はしばらくの間、ひとりその場所から森野を見続けた。カゴの中の強打者は、他の誰よりも心地よい快音を観衆のいないドームに響かせていた。