「何か問題があっても動くんじゃねえぞ。ここは俺のシマだからトラブルになったら、そこの店にいるから知らせに来い」と言って、今度はすぐそばの別の雑居ビルに入っていった。
ここに停まっているのも針のむしろ状態であるが、このあとさらにどこかに連れ回されるのかと考えると、さらに気が重くなっていく。こうしているうちにもあがっていくメーター科金を支払ってもらえるのかもわからない。
また10分ほどすると、お客が戻ってきた。車内には乗らず、
「悪かったな。もういいぞ」
と言われ、料金3900円のところに5000円札を出し、「釣りはいらねえ」と言う。
これでやっと解放されたかと思うと、心底ほっとした。こんな人には乗ってもらいたくないが、“その筋の人”も悪い人ばかりではない(*3)。
*3 その筋と思われる人も、たいていは何事もなくおとなしく乗っている。貫禄のある、その筋らしき老紳士が降り際に「お稼ぎなさい」とだけ言い残したのは迫力があった。
御徒町で“その筋の人”を乗せた。東京駅を指示され、向かう途中、携帯電話で組の人間関係と思われる話を延々としていた。
目的地に到着。お客は、欠損した小指を見せ、「運転手さん、これ、障害者割引10%ね」とジョークを言って大笑いすると、2000円を置いて、お釣りを断って降りていった。
お褒めの言葉:「ワンメーターでいいですか?」
入社して3年目、事務職員の山田さんに呼ばれた。
「黒タクに1台空きが出たんですよ。内田さん、いかがでしょうか」
思ってもみない提案であった。ボディ色が黒いタクシーのことを「黒タク」と呼ぶ。黄色や緑色などの派手なカラーリングとは違って、高級感のある見た目が特徴である。
一般的なタクシーよりクルマのグレードが高く、それにともない内装が良く乗り心地が快適で、質の高いサービス提供を謳っている。要はワンランク上のタクシー(*4)ということになっている。
*4 ハイヤーとは別。ハイヤーは完全予約制で街を流さない。料金体系も違い、ハイヤーはメーター制を運用せず、出庫から帰庫までが課金対象となる。黒タクはあくまでタクシーのひとつ。料金も通常のタクシーと変わらない。
黒タクのドライバーは、ある程度の社歴を重ね、地理に精通し、接客も良好と認められた優良乗務員ということになる。
私はといえば、丁寧な接客だけは心がけていたものの、まだ都内にはおぼつかない場所も多く、ドライバーとしての自信もなかった。
しかし、黒タクはそのハイグレードなイメージから、飲食店がわざわざ指定してきたり、黒タクだけを好んで乗る人もいたりと、営業面では間違いなくプラスになる。
山田さんが私を黒タクのドライバーに推してくれたと思うと、その期待に応えたいという思いもあった。
こうして3年目から私は自信のないまま、黒タクドライバー(*5)となった。
*5 結局、辞めるまで黒タクに乗り続けることになった。「黒タクなのに道を知らないのか」と思われるのが怖くて、熟知した上野周辺に張り付くようになった。このことが営収をあげる可能性を潰してしまったような気もする。
昼下がり、大手町から来車してきた女性客が目的地を告げる前に開口一番こう言った。
「ワンメーターですけど、いいですよね?」