「あの道を使ってほしい」「できるだけ早く到着してほしい」「安全第一で運転してほしい」……。日々、乗客からのさまざまな声に応えるタクシードライバーたち。彼ら彼女らのもとには、ときに、思いもよらない要望が伝えられることもある。

 ここでは、50歳で失業し、以降15年間にわたってタクシードライバーとして勤務した内田正治氏は著書『タクシードライバーぐるぐる日記』(三五館シンシャ)の一部を抜粋。同氏の印象に強く残る乗客の“要望”を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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その筋の人:「ここで待ってろ。逃げるなよ」

 明らかに“その筋”、今の言葉でいう“反社”と思われる人が手をあげている。夜11時すぎ、浅草の路地裏だった。

 本来なら知らないふりをして、そのまま通りすぎたいところだが、ばっちり目が合ってしまっている。これで目を逸らすわけにはいかない。

 停めてご乗車いただく。いつもどおり丁寧に接客(*1)する。

*1 タクシードライバーというプロと一般の方との違いは、運転技術や地理に詳しいことよりも気配りだと思う。文句を言うつもりのお客があいさつの仕方で収まることもある。乗客時に丁寧に対応することは自己防衛にもなる。

 伝えられたのはワンメーターもいかないくらい近くのクラブだった。

 そこに到着すると、

「ちょっと行って戻ってくるから、ここで待ってろ。逃げるなよ。会社と名前は覚えたからな」

 運転者証を確認しながら、そう言う。

 憶測だが、以前に関わり合いになりたくないと思って、待ての指示を無視して科金もとらずに逃げたタクシードライバーがいたのだろう。

 私も数百円の支払いならば、とらずにこのまま逃げてしまいたい。しかし、そう言われれば、もう逃げるわけにはいかない。

「メーターは倒したまま、お客が帰ってくるのを待つ。目の前の雑居ビルに入っていったので、このまま踏み倒して逃げることはないだろうが、この先のことを考えると、むしろ踏み倒して戻ってこないでほしいくらいだ。

 期待もむなしく、お客は30分ほどで戻ってきた。

「上野行け」

 どすの利いた声でそう指示する。

 上野に向かい、上野駅前をすぎても何も言わない。どうしたものかと思っていると、突然「そこ、右だ!」と怒鳴った。急ブレーキをかけて、上野仲町通りへ入る。

 知っている人は知っているが、夜の上野仲町通り(*2)は人であふれ、とてもクルマが入っていけるところではないのだ。

*2 昼に歩けばふつうの飲食店街だが、夜になると表情が一変。風俗店のネオンが輝き、客引きのお兄さんがたむろする歓楽街となる。

 雑踏の中、歩くようなスピードでゆっくりとクルマを進める。通りすぎる人々はみな、「なんでタクシーがこんなところに入ってきやがるんだ」という顔で見る。

「私は別に入りたくて入ったんじゃありません。お客に言われたから仕方なく入っているんです」と心の中で言い訳を繰り返す。

「そこで停めろ」

 またある雑居ビルの前で停車を指示され、また「待っておけ」と言い残し、お客はそのビルに消えていった。狭い道にクルマが停められ、行き交う人々が邪魔だなという顔でこちらを見る。

「こんなところに停めんなよ」という声まで聞こえる。いたたまれない気分だ。

 15分ほどすると、また戻ってきた。