某月某日クレーマー:ベテラン職員の解決法
深夜に帰庫すると、事務所の雰囲気がいつもと違う。それとなく知りあいの事務職員に開くと、ちょうど今、別室で夜勤の田尻さんがクレーマー対応にあたっているのだという。
事務職員が声をひそめて教えてくれたのは、その日、交通トラブルがあり、相手の男がタクシーを付け回した挙句、営業所まで文句を言いに乗り込んできたのだという。会社には事故の際に専門的に処理をする「事故係」はあるが、クレーマー対応を専門に請け負う係はなかった。基本的には事務職(*5)のベテラン社員が対応していた。
*5 元ドライバーで年齢でリタイアした人たちがパート勤務で夜の電話番をしていた。夜8時から翌朝9時まで、正社員は仮眠していることが多く、基本的には彼らパートさんたちが電話対応にあたっていた。
正当なものから意味不明なものまで、電話による苦情はよくある。
「接客態度が悪かった」とか「わざと遠回りされた」というようなものから、「5人で乗せてほしかったのにドライバーに断られた」といったものまで多種多様である。しかし、こんな夜中に会社まで直接文句を言いに押しかけてきた人は初めて見た。
何を言っているかまでは聞こえてこないが、その部屋からはときおり怒鳴り声が外にまで漏れてくる。相当な剣幕らしい。
田尻さんは事務職だが、数年前までタクシードライバーだった。大柄で強面であり、それを見込まれてクレーマー対応に当たることが多かった。
見た目は怖い田尻さんだが、シャレのわかる人でいつもドライバーの身になって接してくれていた。私など営収が悪いとき、「こんな日もあるよ、内田さん。次にがんばればいいよ」とねぎらいの言葉をかけてくれた。
タクシーに乗車していても、ドライバーに苦情を言う人は多い。言われて仕方ないと思うこともあるが、意味のわからないクレームも多いのだ。
なかにはクレームをつけたくてクレームをつけてくる人がいる。こういう人は苦情を言うこと自体が目的なのだから、どうにもならない。
クレームを言われたドライバーを先に帰宅させ、田尻さんはひとりでそのクレーマーと向き合っていた。
15分ほどすると、クレーマーは最後っ屁のような悪態をつきながらも帰っていった。
私は田尻さんに「どのように解決したんですか」と聞いた。
「人は熱くなるときもあるが、時が経てば元に戻るんだよ。ずうっと怒っていることなんてできないんだから。相手の言い分を黙って開き、しゃべり終わるまで反論しない。今回だって、相手の言い分をうんうんと聞いていただけだよ」とほほえんだ。
クレーム対応のお手本で、彼の貫禄勝ち(*6)だった。
*6 ベテランドライバーの話によると、田尻さんはドライバー時代の成績はまったく振るわなかったのだという。人にはそれぞれ能力を生かせる場所があるということだろう。
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