「2014年に慰安婦報道問題などがあり、社を辞めました。ずるずると残るつもりはなかったんです。ただ当時から、新聞社でやれないかと密かにあたためていたことがありました」
そう語るのは、元朝日新聞社社長で現在は国際医療福祉大学特任教授を務める木村伊量さん。今回、ミネルヴァ書房から『私たちはどこから来たのか 私たちは何者か 私たちはどこへ行くのか』を上梓した。
「いまの時代、新聞社の生きる道は三つではないか。通信社の役割と調査報道、それからシンクタンク機能。梁山泊ではないですが、さまざまな分野の記者や在野の学識経験者を集めて、アカデミズムとジャーナリズムをつなぐ、近現代文明の研究所をつくりたかった。私自身、編集幹部のときや経営の一端を担ってからも、時間を見つけては、古今東西、多方面の本を読んでメモをとってきました」
大学では、2017年から近現代文明がテーマの公開講座を担当。その内容が本書のもとになっている。
「縁あって、講座を持つことになったんです。本書の表紙とタイトルで拝借したゴーギャンの絵の題名が、講座の副題でした」
本書の副題は、明治の思想家・中江兆民のひそみにならって「三酔人文明究極問答」。伊豆山中で酒房を営む元政治記者・ハヤブサの司会のもと、年齢不詳の万学の王・如月、強烈な進歩肯定派の脳神経外科医・サチコ、博覧強記な精霊の森の隠者・りゅう、という個性派ぞろいの論客が丁丁発止の問答を行う。その話題は、パンデミックとグローバリゼーションから、国家、核、気候変動、人間の理性と宇宙の神秘まで、森羅万象に及んでいる。
「それぞれの立場からの持論をぶつけ合う形式で、論点を際立たせました。私自身わからない問題も多い。例えば、気候変動の議論。当座は脱炭素社会をめざすことで決着がついているかとおもいますが、長いスパンでみれば、現在は間氷期にすぎず、寒冷化がいずれやってくるという研究もある。環境問題に限っても50冊くらいは読んだかなあ」
伝えたいことは、「一つの物事でも見方によってちょっと違って見える」。
「なにもかもが二者択一的なデジタル社会にあって、複眼的でアナログな発想はより重要だと感じています。いろいろな角度から見たうえで、自分の頭で考えてほしい。そのためには、自分が知らない分野の本を読み、異なる世界の人の話に耳を傾ける。社の後輩たちにも『夜討ち朝駆けばかりやっていると馬鹿になるよ』と言っていましたね」
今年亡くなった作家の半藤一利さんとも親交があった。本書に至るまでには、こんなエピソードも。
「半藤さんもお酒がお好きだったので、社長のときもそば屋で何度か飲みましたよ。あるとき、『いつかのために朝の4時に起きて書きためているんです』と言ったことがあって。そしたら『あんたは怠け者だねえ。私は文春の頃からずっと、3時半に起きてましたよ』って叱られちゃった。いつ寝ているんだとおもいながら、励まされました」
本書が初の単著。執筆は今後も続けていくという。
「2年前に講座を終えて、1日十数時間、四畳半の書斎に籠もっていました。修行僧みたいな生活でした。それでも、書くのは楽しいですね。テレビの時事解説のオファーも頂きましたが、丁重にお断りしました。メディア業界にへばりついて生きていく覚悟もないし、なんだかつまんない。人生百年にも満たないのだから、未知の世界への挑戦を続けたいとおもいます」
きむらただかず/1953年、香川県高松市生まれ。1976年に朝日新聞社に入社、政治部長、東京本社編集局長、ヨーロッパ総局長などを歴任。2012年に同社代表取締役に就任し、2014年に辞任。2016年、英セインズベリー日本藝術研究所シニア・フェロー。2017年より現職。