立派で広々とした駅前広場!「新倉敷」にやってきた

 でも、せっかく天下の“倉敷”の名を得たのだ。地味扱いされていては悔しいに違いない。どんな駅なのか、何があるのかをしっかり見てやろうではないか。

 こうしてあれこれ言い訳をしながら新倉敷駅にやってきた。在来線の駅は地上に、新幹線の駅はそのすぐ隣の山側の高架にある。橋上駅舎のコンコースで両者はつながっているが、新幹線側のコンコースのほうが少し高台だ。

在来線の「新倉敷」は地上に、新幹線の「新倉敷」はそのすぐ隣の山側の高架にある

 新幹線の駅のある山側はあとにおいて、まずは海側の広場を見に行くとしよう。階段をえっちらおっちら降りて、すぐに駅前のロータリー。さすが、新幹線のターミナルである。とてつもなく立派で広々とした駅前広場がどーんと待ち受けていた。

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 さらに広場の先にはまっすぐに伸びていく大通り。両脇には金融機関や紳士服チェーンやら、まあおなじみの地方の駅前らしい光景が続いている。ずーっとまっすぐ先には何やら高架らしきものが見えるが、それは国道2号の玉島バイパス。1998年に全線開通した倉敷市内を貫く自動車専用道である。

「玉島」と「新倉敷」

 と、ここで名前が出てきた「玉島」。実は新倉敷駅は、かつて玉島駅という名前だった。駅の歴史はとてつもなく古く、1891年に山陽鉄道として山陽本線が開通したと同時に開業している。その当時の所在地は岡山県浅口郡長尾村。長尾村はのちに長尾町になり、1953年に玉島市に編入。1967年には玉島市が倉敷市に編入されて倉敷市内の駅のひとつになった。現在の新倉敷駅に改称したのは、1975年の山陽新幹線開通のときである。

 いずれにしても新倉敷駅は玉島駅、つまり玉島という街の玄関口であったというわけだ。倉敷ではなく玉島の。となると、玉島って何さということになる。

“港町”「玉島」って?

 ところが、ここでも問題が立ちはだかってくる。玉島という街について調べると、“港町”であるという。高梁川の河口に広がる街で、江戸時代に港が整備されて高瀬舟による高梁川水運と瀬戸内海の海運で栄える要港になった。

 特産の備中繰綿や鉄を玉島から運び出し、北海道のニシン粕などを受け入れていたようだ。近代以降は交易港としての役割は衰えたが、玉島紡績の創設などもあって工業化。戦後は高梁川対岸に広がる水島臨海工業地帯の発展に伴って宅地化も進んでいる。