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日大相撲部の監督に就任

 田中氏は自著「土俵は円 人生は縁」のなかで、こう記している。

〈最初から経済力のある彼女におんぶにだっこですよ。彼女と一緒にいれば、お茶代も飯代もまったく不要でしたから。その浮いたおカネで部員たちの面倒を見れます〉

 優子夫人の内助の功もあり、田中氏は83年、日大相撲部の監督に就任する。

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「田中氏が指導した角界の日大出身者は50人を超えています。現役理事の境川親方を始め、木瀬親方や入間川親方、さらに解説者の舞の海や野球賭博で追放された琴光喜もいます。そのほかアマ相撲界にも、角界に力士を輩出し続ける鳥取城北高の石浦外喜義総監督や埼玉栄高の山田道紀監督などがいて、田中氏は角界に絶大な影響力があった。チビッ子相撲で有望な子がいれば、小学生の時から日大相撲部で練習させ、小遣いをやりながら手懐け、日大に入学させる。入門の際に、いかに高く部屋に売るか。田中氏は金も含めた、その差配をするのです」(角界関係者)

土俵でドンチャン騒ぎ

 田中氏のスカウトを受けた経験がある元力士が明かす。

「中学3年生の時、田中氏から呼ばれ、いつも通り小遣いを渡されたのですが、その時は輪ゴムでとめた10万円だったので驚きました。とにかくお金持ちで、お金の切り方も凄かった。毎年大晦日になると日大OBや親方衆、現役力士にも声が掛かり、日大の合宿所にみんなが集まります。土俵のところにブルーシートを敷いて宴会が始まるのですが、そこで唄う恒例の歌がありました。『田中先生、ありがとう』という歌で、これを唄い出すと田中氏が踊り出す。そこからはドンチャン騒ぎでした」

 相撲界での絶大な力を背景に、田中氏は日大の中でも99年に理事に就任し、確実に地歩を固めていった。

「田中氏がいた保健体育審議会の傘下の各運動部は、それぞれ推薦入学枠を持っています。全国大会の成績などに応じ、入学試験のハードルを下げて受け入れるのですが、この“保体審入試”は以前から不透明な部分があった。ある運動部で推薦枠が余れば、その枠を融通し合うのです。差配は田中氏が牛耳る保体審が行なうのですが、相撲部とアメフト部はとくに推薦枠を多く持っており、別格扱いでした」(日大の元幹部)