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「田中氏は権力闘争が根っから好き」

 日大のアメフト部はカリスマ指導者だった故篠竹幹夫元監督が44年間の監督在任中に、学生王座に17度導き、黄金期を築いた。この時のアメフト部部長が、のちに日大の9代目総長となる瀬在良男氏である。

「良男氏は、93年の総長選で、弟の幸安氏と総長の座を争って戦いました。田中氏は、体育局に影響力を持った良男氏が総長になると、ピタリとくっつき、鎌倉に住んでいた良男氏を囲む“鎌倉会”なる集まりの中心メンバーになった。ところが、3年間の任期の間に状況が変わり、鎌倉会は解散。田中氏は、次の総長選の戦況を見極め、敵だったはずの幸安氏に乗り換えた。選挙参謀のように振る舞い、資金も用意して勝ち馬に乗ったわけです。田中氏は権力闘争が根っから好きなんです」(前出・日大の元幹部)

田中英寿理事長

幸安氏が田中氏を切る決断

 そして瀬在幸安氏は10代目総長に就任。この頃、田中氏は「日大で横綱になってやる」と周囲に公言し、野心を隠そうとしなかった。しかし、彼は“綱取り”を目前に最大の危機を迎える。

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「田中氏は、幸安氏に『相撲部の部長になって欲しい』と申し出るなどして信頼を得ていき、側近として引き立てられました。02年には常務理事に出世。就任祝賀会にはゼネコンの幹部らがズラリと顔を揃えた。ところが、幸安氏が3期目に入ると、風向きが変わり始めました。田中氏に学校施設の新築や増改築工事に絡むゼネコン業者からのキックバック疑惑や暴力団関係者との黒い交際など、きな臭い噂が絶えなくなったのです。幸安氏は、田中氏の悪評を耳にするだけでなく、パーティーの席で、施設の建設を担う営繕管財担当の常務理事を差し置いて、建設業者が田中氏の元に挨拶に出向いている場面を目撃し、田中氏を切る決断をするのです」(同前)

 すると田中氏は“反総長”の急先鋒に転じ、次期総長選では幸安氏が推す“後継候補”ではなく、その対抗馬の支援に入った。