執筆のプロセス
徳岡孝夫君と私は、大阪の旧制中学の同級生である。旧制中学といってもご存知ない方が大半になった今、簡単に説明しておくと、今の中学と高校を一緒にしたような五年制で男子ばかりの学校であった(私たちの学年は、男女共学を知らない最後の学年だった)。
一学年三百人以上いたといっても、五年も同じ学校の同学年でいれば、互いに顔も知らない者はいなくなる。中学時代の徳岡君と私は、その程度の知り合いだったに過ぎない。同じクラスになったこともなく、部活動も違った。戦争中徳岡君は兵器委員をしていて当時中学にもあった兵器庫の三八式歩兵銃の手入れをしていたころ、私は柔道部にいて、何の接点もなかった。
戦後私が野球部へ入って校庭で他校との対抗戦をしていたとき、彼は旧兵器庫の屋根の上で応援してくれていたようだが、応援していたといっても、野球部の花形選手ではない、八番ライトの私など見てはいなかっただろう。
連絡を取るようになったのは、仕事を離れて年金生活に入った私が大阪から関東へ移住して、エッセイや小説を書くようになり、はじめて出してもらった単行本を送ったら、彼が電話をくれた、その時からだった。その拙著には彼にとって思い出深い大阪のある場所を舞台にした一章があったのだった。
それ以後、活字になったものはすべて彼に送ってきたが、忙しい締めきりに追われる執筆生活のなか、彼は文書で感想を送ってきてくれた。活字になったものといっても、同人誌掲載のもので、野球でいえば、ライトで八番ですらなく、ベンチにも入っていない補欠選手のような私の小説らしきものに対して、彼は必ず一筆書いてきてくれた。と同時に電話での交友も深まった。
同級生のよしみ、といっても、なかなか出来ないことで感謝のほかないのだが、作品の出来不出来とは別の、私の書いているものの内容が、彼の郷愁を誘う時代であり、また故郷大阪の風景が背景であることも、私たちの「老いての交友」に繋がったのではないかと思っている。私の書いてきたものは、ほとんど大阪を舞台にした大阪弁をしゃべる同世代人を主人公にしたものである。