誰しも同級生の絆というものは他の関係にも増して深いものだが、それに加えて私たち世代の同級生には、中学時代が戦争のさ中で、三年生から四年生にかけての戦争末期の特殊な体験を共有しているという絆があった。学業はなく勤労動員ばかりのなか、空襲に逃げまどう毎日を過ごす極限下の十五歳だったという体験を共有する。まだ戦っていた訳ではなかったが、戦友と呼べるに近い感情を共有している同級生だった。
昭和二十年(八月には終戦となる年)、三月からの度重なる空襲で大阪の街の大半は焼き払われ、戦局はすでに沖縄も陥落し、「本土決戦」が叫ばれるようになった五月、六月、私たち四年生は和歌山へ連れて行かれた。農家や寺に分宿しての、敵の上陸に備える沿岸陣地の構築作業だった。
敵機が大編隊で悠々と北へ、大阪の方へと飛んでいく下で、「早く作らないと、敵が上陸してきたとき隠れるところもないぞ」と監督の兵隊に尻を叩かれての、海が見える山腹での穴掘りだった。
敵の空母から飛んできた小型機が飛び回って機銃掃射を仕掛けてきて、隠れるよりほかなかった日もあった。その日は夜になってからの作業になったりして、「ここで死ぬことになるかもしれん」などと、ふと思ったりした毎日は、いくらしゃべってもしゃべり切れない思い出だった。私の中学では私たち四年生だけの体験だった。
中学時代に深いツキアイがなかった間柄が、こんな共通体験を話し合ううちに、その距離がアッという間になくなって以来二十数年、ここ数年は二人とも妻を喪い、独り身になったせいもあって、ほとんど毎日のように、電話でいろんなこと、その日の阪神タイガースのことや、弟妹や子供たちと話すのとは違う話、弟妹や子らが聞いてくれない話をも含んで、故郷大阪の言葉でしゃべり合っている徳岡君と私だが、今でも時々和歌山の話をすることがある。
このような関係の友を持てているのは、幸せなことではないかと思う「百歳以前」である。