そんなツキアイのなか、徳岡君から、われわれ世代の体験を本にしておこうや、という提案があった。令和二年の秋、徳岡君との共著として『夕陽ヶ丘──昭和の残光』という本を上梓した。この本には、さまざまな方から望外の嬉しい評価、激励をいただいた。その励ましに勢いを得て、九十一歳の同級生二人が書いたのが本書である。
徳岡君は、「長寿になったといっても、百歳になったらもう何をする能力もなくなる。百歳以前をどう生きるかだよ、これからの課題は。それを書こうと思う」と、新聞記者生活のさまざまな記憶の中からエピソードを択んで、締めに、問題提起や提言を置きたいと言う。私は、それとは何の脈絡もなく、「『百歳以前』の身辺雑記」として、九十歳を超えた今現在の、環境、生活、思いなどを書いてみたい。後輩への指針になるか、反面教師になるか。いずれにしても何らかの意義があると思う、と言った。
こうして本書を編むスタートが切られた。
「書いても書いても、というて実際には書かれヘンから、覚えるんやけど、それが、覚えたつもりのもんが、いざ話そうとすると、みんな飛んでてなあ。結局ぶっつけで話さんといかんのや」
「だから、細切れでいいやん」
「そう言うてくれると助かるわ」
「いやねえ、この頃テレビで記者会見なんか見てると、新聞記者はみんなパソコンやスマホを前に置いて、聞いたものを直ぐ打ち込んでるみたいやけど、こっちはそうはいかん。キミがしゃべるのを直打ちしようとすると遅れて分からなくなってしまうから、ICレコーダーに録音して、その録音したものを再生してパソコンに打ってるんやけど、そんなことにも慣れてないから、なかなかスムースには運ばん。電話の時はよう分かった筈の文章が、再生の時は声が違うので聞き取りにくい。長い文章やと推測がし難く、キミが何としゃべってたかが思い出せなくて難儀する。その点、細切れで聞いたときは直ぐパソコンへ入れるので今聞いたことは聞き取り難くても推測できるからやりやすい。そやから、細切れでいいから、どんどん行こうや。それで後でプリントしたものを読むから、その時、修正してくれたらいい」