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「痩せこけた遺体にシラミが大群でうごめいていた」

 時折、表情を歪めながら川崎さんが語る、90年代の衝撃的な北朝鮮の実態。チフスやコレラなどの伝染病も流行ったという。

「国連の支援物資が届く2000年ごろまでは、病死や餓死した遺体が街中に放置されているような状態でした。道端で普通に人が亡くなっているんです。地方から食糧を求めて都市に向かう人が途中で力尽きてしまうんです」

 餓死した遺体は痩せこけてドロドロに汚れ、体以上にボロボロになった服のようなものをまとい、ぼうぼうに伸びた髪の毛は汗と埃にまみれて団子状になって、その上を白いシラミが大群でうごめいていたという。

「死体の処理に警察だけでは追いつかず、一般の人も加わっていました。娘婿もやっていて、5人分の死体の名前などが書かれた証明書を束になるくらい持っていました。

 治安維持をするための軍隊は強盗集団と化し、それぞれの家は鉄格子をつけるなどして対策していました。詐欺も横行していましたよ。松茸の輸出とかで投資を持ちかけられて、応じると持ち逃げされるといった感じでした」

脱北を決意「最後に日本に残った家族に会いたい」

 過酷な状況だったが、川崎さん一家は日本にいる家族からの仕送りにあった衣類などを闇市で売って生き延びた。同時期に5人の子供たちがそれぞれ結婚すると、次第に脱北する決意を固めていく。

「こんな時期なのに金正日は新たな官邸を建てていました。もうこの国を内部から変えるのは本当に無理なんだと思いました。こんな過酷な状況で精神がおかしくならない自分がおかしい気がしていました。

中国との国境にある鴨緑江 ©️getty

 脱北は北朝鮮に渡った当初から考えていましたが、家庭もあり子供たちの親として責務もある。でも子供たちが巣立ち、私も年を取りました。でも子供たちが巣立ち、私も年を取りました。最後に日本に残った家族にも会いたかった。ですが、脱北を手伝うブローカーのなかには、悪質な人身売買業者も紛れていました」

 川崎さんはいかにして脱北したのだろうか。

#3に続く

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