税金はないし、医療、教育は無料。好きなところに行くことができて好きな学問を学べる地上の楽園――。

 1960年頃、そう喧伝されていた北朝鮮には多くの在日コリアンが“帰国”した。しかし現地での生活は厳しく、帰国者の何人かはその後脱北。日本にはそうした元帰国者を含めて脱北者が約200人いると言われているが、在日コリアン2世の川崎栄子さん(79)もそのうちの一人だ。(全3回の3回目/#1#2を読む)

中国との国境にある鴨緑江 ©️getty

殺人に強盗…食糧危機で北朝鮮は“最悪の時代”に

 川崎さんは17歳の時に北朝鮮へと渡ったが、そこには“楽園”とは程遠い「数百年歴史が遡ったようだった」という現実が広がっていた。出国は許されず、日本に残った両親ら家族とも、年に数回の手紙のやり取りや、仕送りをもらうことで精一杯だった。

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 そのなかで、川崎さんは地元男性と結婚し5人の子供を授かった。北朝鮮でなんとか生活基盤を確立していた川崎さんだったが、1994~2000年にかけて深刻な食糧危機に見舞われる。配給がストップした北朝鮮では当時、人口2500万人のうち30万~300万人以上が餓死したと推計される。

 しかし川崎さんは、当時の状況をこう振り返る。

「食糧危機が原因で殺人や強盗も横行していました。嫁を殺害して食べる姑や、人肉をいれた冷麺を売っていた人もいました。そうした被害者を含めると5人に1人は亡くなっていたような感覚です。500万人近い人が亡くなったんじゃないでしょうか」

 壮絶な状況だったが、食糧危機は2000年ごろに国連物資などのおかげで沈静化した。

日本の首相が「お教えを請うための訪朝」

 そしてその直後、2002年9月に日朝関係で大きな出来事が起きる。当時の小泉純一郎首相が、日本の歴代首相として初めて訪朝し、金正日総書記と会談を行ったのだ。

 ここで北朝鮮側は、拉致被害者の存在を初めて公式に認めた上で、日本政府が拉致被害者と認定していた横田めぐみさんら計8人の死亡を主張。蓮池薫さんら計5人の生存を伝え、生存者の日本への帰国が実現した。

「北朝鮮内で情報はコントロールされていましたから、拉致被害者のことはまったく知りませんでした。小泉首相が来るということも国内で知らされてはいましたが、単に『金正日総書記にお教えを請うための訪朝』と伝えられていましたから」