中国には1年半ほど潜伏した。川崎さんが雇ったブローカーに問題はなく、中国から日本へ向かう準備をしていた際には、日本語の講師をしながら、知り合いのつてで別のブローカーの通訳をしていたという。
「ブローカーの多くは女性なんですよ。ご主人が法曹関係者とか、立派な職についている。私がお世話になったのは大物ブローカーで、ご主人の威光があったので、絶対に公安に捕まることはなかったんです。
しかし通訳をしたのはひどい業者だった。人身売買業者だったんです。脱北者のリストをつくり、全員中国の大学を卒業したことにして、韓国や中国の金持ちなどに売り飛ばしていました」
国境を挟んで息子と最後の対面「覚悟しています」
川崎さんは日本の領事館に行き、なんとか弟が身元引受人になるなどして日本国内に入ることができたという。しかし日本へ帰国する前、川崎さんは一度だけ、北朝鮮に残る息子と顔を合わせている。
「中国に渡った後、中国と北朝鮮の国境の警備隊にお金を払って、河川敷で息子と会ったことがあるんです。息子は『お母さんは親の役目を果たしたので自分の親兄弟のところへ帰っていいですよ』と言ってくれました。息子には連帯責任が降ってくる可能性がある。『覚悟しています』と言ってくれました」
北朝鮮に残した家族に後ろ髪をひかれつつも、北朝鮮での長い生活を経て、ついに日本に帰ってきた。
「40年ぶりの日本でしたが、映画を通して日本の発展を知っていたので、そこまで驚きませんでした。見つかると厳罰を受けるのですが、ビデオデッキを持っていた友人にビデオを売りに来る業者がいて、日本やアメリカの映画を観ていましたので。『スターウォーズ』は大好きな映画でした。例外的に『寅さん』は金正日が好きだから、観ても大丈夫なことになっていたので、全巻見ました」
「危篤状態の父が私を見て驚いた表情に」
こうして帰国した川崎さんは、自宅ではなく病院に直行した。父親が危篤状態で入院していたのだ。
「病気の父はもうしゃべることはできなくなっていました。それでも私を見てとても驚いた表情をしていました。4日後に亡くなってしまいましたが、最後に会えたことには本当に意味があると思っています。帰国者のほとんど全員が親の死に目には会えなかったわけなので。母は私が帰ってきてから2年後に亡くなりました」