本当はもう中田翔について書かないつもりだった。彼はもうファイターズの選手ではない。僕の夢から出て行った存在だ。球界を揺るがした暴行事件も不可解な無償トレードも、何かずっと遠い出来事のようになってしまった。せっかく「新庄ビッグボス」就任で空気がガラッと変わったのだ。今さら蒸し返してモヤッとした気持ちになることはない。何より僕は少々傷ついていた。中田翔の名前を聞くのがつらい。中田翔の姿を見るのがつらい。
あれは中田翔ではなく「あと1人」という名の選手だった
だけど、見てしまった。11月12日、金曜の夜。僕は本当はNHK‐BSでパ・リーグのほうのCSファイナルを見ていたのだった。京セラドームは8回裏、走者を置いてオリックスの4番・杉本裕太郎という見せ場だった。そこへ野球好きの仲間からLINEメッセージが入った。
「神宮9回2死、代打中田です!」
ぞわあっとした。BSフジにスイッチする。中田翔が打席にいる。2021年セ・リーグCSファイナル第3戦、9回表2死走者なしで代打中田。スコアは2‐2。ヤクルトはこの試合引き分けでも6年ぶりの日本シリーズ進出が決まる。あと1人。勝利の予感に球場が浮き足立っている。
中田翔はざわざわざわざわしたなかで不安げに打席に立っていた。あと1人。このCS、初めて起用されたのが9回2死、崖っぷちの代打だった。顔色が冴えない。自信のなさがたたずまいでわかる。あれは中田翔ではなく「あと1人」という名の選手だった。案の定、外角のワンバウンドするような球を振らされて三振、コールドゲーム成立! スイングがまた手打ちもいいところだった。カットして逃げようとして空振ったみたいなザマ。
ヤクルトの選手が飛び出してくるなか、中田がまとまらない顔をしてベンチに下がる。ヤクルトスワローズ日本シリーズ進出! 僕は胴上げシーンはニュースで見ることにして、京セラの試合終盤へ戻った。一年ペナントレースを戦ってきて、パ・リーグの栄冠の行方にやっぱり関心がある。オリックスもロッテもなじみの選手ばかりだ。最後まで見届けたいと思っていた。
僕は中田翔が悲しくてたまらなかったのだ
ややあってオリックスの日本シリーズ進出決定の瞬間が訪れる。悲願を叶えた男たちの顔は晴れやかだった。おめでとう、素晴らしいよ。今季のオリックスはシーズンが進むにつれ、ぐんぐん「優勝チーム」になった。こう、ジグソーパズルが埋まっていくようだった。中嶋聡監督、おめでとう。鎌ケ谷で駅からスタジアムまで人知れずタイムアタックしていて、「今日は新記録を作った」と職員に自慢してたのが昨日のことのようだ。ちなみに記録は「早歩きで18分」という驚異的なものだった。今、中嶋さんが宙を舞っている。知り合いのオリックスファンにお祝いメッセージを送ろう。
今夜、セもパも日本シリーズ出場チームが決まった。どちらも前年どころか2年連続最下位からの巻き返しだ。解説者、評論家諸氏は全員、順位予想を外した。あぁ、こんな日本シリーズ見たことないなぁ。
と意識の流れとしては野球バカ一般のそれだったと思うのだ。胸の奥に澱(よど)んだものが残っていて、あれ、なんだろなぁと思った。紅林成長したなぁ、安達をコンバートした甲斐があったな、なんて意識の上ではオリックスの優勝をたたえているのだ。
胸の奥の澱(おり)は広がっていく。僕は自分の感情がわからない。気がつくとテーブルに突っ伏していた。何でかわからないが泣いている。
オリックス優勝に感激したのでも嫉妬したのでもないのだった。
ようやく気づいた。僕は中田翔が悲しくてたまらなかったのだ。
中田翔、何だよあのザマは。あれが十何年、オレらが期待をかけてきたヒーローの姿か。
心に広がる澱の正体は悲しみだった。僕は巨人ファンにすら「なぜ代打中田?」「CS終わった」と揶揄されながら、不安そうに打席を務める中田がただただ悲しかった。僕は不人情にも気持ちにフタをした。中田が無関係だからだ。無関係なものが三振しようと何しようと知ったことじゃないというわけだ。悲しいのに悲しくないふりをして、目をそらした。