人工知能の時代を迎え、機械(人工知能)にもできることと、人間にしかできないことを峻別する必要が生じる。
たとえば――。「私たちは、人間がつくった音楽と人工知能がつくった音楽を聞き分けることができるでしょうか。それができる人間を育てるのが、これからの教育の大きな課題です」。そう語るのは梶取弘昌・武蔵高等学校中学校長だ。
麻布、開成と共に“御三家”と呼ばれる武蔵だが、実は東大合格者数が減少している。しかし、おおたとしまさ『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』(集英社新書)によれば、梶取を含めて武蔵関係者は誰もそのことを憂いていない。むしろ受験教育と一線を画す武蔵教育を徹底させようとしている。本格的な演劇に挑戦する英語教育。敢えて人になれないヤギを校内で飼う。英語圏以外で一人旅をさせる国外研修等、本書が取り上げる事例はみなユニークだ。
こうした武蔵教育の姿勢は実は哲学者・鷲田清一が阪大総長として着手した教養課程革命と通じる。阪大でも演劇を講義に取り入れ、アーティストと共に演習を行った。今は京都市立芸大学長となった鷲田は京大総長の山極寿一との対談書『都市と野生の思考』(インターナショナル新書)で「目に見えるものを通して見えない世界を見たり、聞こえる音を通して聞こえないものを聞く」ことに芸術の価値があると述べる。
絵や音楽の背景には芸術家が生命を賭けて蓄積してきたものの全てが控えている。それに触れたいと思うのは同じ人間としての関心であり、機械はその動機を持たない。そして、背景に響く「聞こえない音」まで聞こうとする姿勢でこそ機械と人間の音楽は聞き分けられよう。
『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)で著者の松本博文は「コンピュータが強くなれば、棋士の存在意義がなくなるのではないか、という疑問に対して、藤井の登場が一つの回答となった」と書く。勝負自体で人工知能に勝てなくなっても天才棋士の強さを人々が喝采し、その才能がいかに育まれたか知りたがることに変わりはなかった。藤井はそれを証明したのだ、と。
機械との峻別が求められた時、文明化の過程で蔑ろにされてきた、人間が本来備える「野性」的な直観や共感の力の評価が改めて促される。鷲田が霊長類研究者の山極を対談相手に選んだのは必然だった。動物と機械の間に広がる「人間の領域」の再確認が人類全体の課題になり、当然、新書が追求すべきテーマのひとつともなるのだろう。