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「おかえりモネ」が描き続けた“生きづらさ”の正体…《手をつなぐラストシーン》に込められた深い意味

2021/11/03
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「震災は人の力が及ばないものですし、コロナもまた震災と同じように、たやすく解決できるものではありません。モネが、どうなるかわからない明日を知りたいと懸命に考えていたように、私たちもコロナ禍でどう前に進めばよいかを、何かしらドラマの中に込めて描けないかと思いました」(ヤフーニュース個人より)。

 ラストシーンはまさにその思いが込められていたと感じる。あまりにも現在との地続き感がドラマにあるものだから、永浦百音や菅波光太朗がこの世にほんとうに生きているような気さえしてしまう。一木正恵チーフディレクターは番組の公式サイトのコラムでこのようなことを書いていた。

 もし朝ドラをやるならば、現代に横たわる大きな課題から目を背けたくないという思いは強くありました。 それは気象災害と、今の圧倒的な「生きづらさ」です。気象災害は温暖化という地球規模の問題とともに、放置された山や限界集落など、日本の社会問題もはらんでいます。 都市と地方の分断や富裕と貧困の分断から、人が人を監視し足を引っ張り合うかのような現代に、行き詰まりを感じます。

 

 朝ドラで描かれることの多い女性の社会進出や、さまざまな意味でのサクセスストーリーよりも、いま女性として社会人として行き詰まっていることを考えられる題材にしたい。今をとらえたい、という感覚がありました。

 東北の応援のみならず、今、日本に生きる人たちの問題に目を向けて登場人物たちに託す。だからこそ現在との地続き感があるドラマになったのだろう。

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なぜ登場人物は“陰キャ化”していったのか?

 現実との近さとしてとりわけ印象的だったのは、登場人物たちの表情や口調であった。百音や妹の未知(蒔田彩珠)の表情はいつもどこか虚ろで、話す時はささやき声。朝ドラヒロインは“陽キャ”(明るい・元気・さわやか)というイメージを覆すようだった。

 過去回を振り返ると、それなりに百音も未知も明るい。それは10代の幼さの表現だったかもしれないし、百音たちなりの社会と折り合いをつける努力の表現だったのかもしれない。しかしある時、百音はふっと考え込む。その後、百音の過去に何があったか遡り、震災を経て無力感を抱くようになったことがわかる。

ヒロインの妹・未知を演じた蒔田彩珠 ©AFLO

 物語が進むにつれてじょじょに陰キャ化していく百音。未知に至っては姉への嫉妬心ゆえの陰キャ的振る舞いかと思わせて、最終週で誰よりも重たい経験を誰にも言えず抱えていたことがわかる。ふだん楽しいことがあれば笑ったりすることもあるけれど、ある瞬間、フラッシュバックして身が竦む。どうしても拭い去れない、何かが身体にまとわりついて先に進めない感覚が、百音や未知の虚無のような瞳や、時々とても苦しそうに絞り出すような小さな声に表れているように感じた。

 最初のうちは論理的な言葉づかいで他者とある種の壁を作っていた菅波も、途中からどんどんささやき声になり、明るく爽やかな笑顔を振りまいていた亮もだんだんささやき声になっていく。みんな、公的な場では微笑みながら礼儀正しく振る舞うが、社交的にふるまう努力を懸命にしているだけであり、内心は不安やおそれを抱えているようだ。