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街へ出ると、涙が出た。いくら拭いても出てきた/直木三十五(小説家)

 1891年~1934年。大阪生まれ。本名、植村宗一。本名の「植」の字をばらした「直木」に年齢を付けた「直木三十一」をペンネームとし、以後「三十二」「三十三」と来て「三十四」を飛ばして「三十五」で定着。代表作『南国太平記』など。

直木三十五氏 ©文藝春秋

「直木賞」にその名をとどめる小説家直木三十五。生涯を通じて、お金に苦しんできた人間だ。その状況は本人の筆による『貧乏一期、二期、三期 わが落魄の記』や『死までを語る』などの自叙伝に詳しい。

 まず、生まれた家が貧乏だった。『貧乏~』には、生家は玄関と奥座敷あわせて四畳半だった、とあり、『死~』には、三間だったとあるが、いずれにせよ、かなり狭い家だったようだ。

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 幼少期には「玩具をもった記憶がない」し「殆ど、間食をした記憶もなかった」という。唯一の間食(おやつ)は「焦げた飯を握った」ものだった。

 その後、家の手伝いをしたり、代用教員をしたりしたのち、上京。20歳で早稲田大学に入学する。しかし、残念ながら直木の学生生活は中途で除籍となって終わる。主たる理由は学費が払えなかったからだ。この頃、直木はのちに妻となる女性と同棲していた。家賃など生活費に困窮していたため、学費にまで手が回らなくなったのだ。やがて長女も生まれる。本格的な貧乏生活がはじまっていく。

 本を売り、着物を質に入れ、翻訳などの仕事も行ったが、もちろん満足な収入にはならない。妻のほうに仕事の口があった時には、直木が主夫のようになって子どもの面倒を見たという。

 27歳の時に知人と出版社を創設してトルストイの全集を出した。これは当たった。これで一旦は貧乏生活から解放された直木だったが、以降、金に困らずに過ごせたわけではない。

 その後、知人と「冬夏社」という出版社を起こしたが、半年で倒産。また、同人誌『人間』を出したり、別の知人と「元泉社」という出版社をはじめたりもしたが、事業はてんで成功しなかった。家賃を18カ月滞納したこともある。借金取りからの電話は慣れっこになった。

 そんな直木を救ってくれた友人もいる。菊池寛は、何もいわないのに

「君、金いるだろう」

 といって、お金をくれたという。子どもの冬服が買えないで困っていた直木に、菊池がお金を恵んでくれた時は

「さよならをして、街へ出ると、涙が出た。いくら拭いても出てきた。貧乏をして泣いたのは、この時だけだ」

 と、貧乏への愚痴と感謝の気持ちを綴っている。その後、映画事業での失敗などもあったが、40歳前後から小説も売れはじめ、生活も安定しはじめる。

「貧乏には慣れている」と、後年、公言した直木。とはいえ、貧乏を必ずしも悲しんでばかりいたわけでもないようだ。彼はこうも述べている。

「貧乏の無い人生はいい人生だが、貧乏をしたって必ずしも、人間は不幸になるものではない」