東口に出てみると…
さて、そうしてやってきた春日部駅は、ホームが3面5線の大きな駅だ。1番のりばが北千住方面に向かうスカイツリーラインの上り電車、3・4番のりばが下り電車、7・8番のりばがアーバンパークラインが使う、というのがおおまかな振り分け。2・5・6番のりばが存在していないのが気になったが、いろいろ複雑な事情があって欠番になっているのだろう。
そんな広い駅の春日部駅から外に出る。外に出ると簡単に言っても、この駅は高架駅でも橋上駅でもないから、最初に駅のどちら側に出るのかを決めるのに覚悟がいる。地図上の北側は東口、南側は西口というややこしい命名はさておいて、東口と西口を行き来するには駅から少し離れた踏切や地下道、陸橋を使わねばならないのだ。
そこで少し考えて、東口に出ることにした。歴史的には春日部駅で最初に設けられた出入り口は東口だからというのがその理由だ。1番のりばのホームから直接ノンステップでつながっている改札口を出ると、目の前には大きな駅前広場。そこからまっすぐ北に向かって大通りが延びている。だったらひとまずこの道を歩いてみましょうか。
商業施設やマンション、観光案内所などが建ち並ぶ道を歩いて行くと、ほどなく公園橋(西)という交差点に出た。この交差点を東西に走っているのが、かつての日光街道である。
南北朝時代は「春日部」→江戸時代が「粕壁」→20世紀に「春日部」
日光街道は江戸から日光へ向かう街道で、宇都宮までは奥州に向かう奥州街道と重なっている。東海道や甲州街道などと並んで五街道のひとつに数えられ、江戸時代初期から整備が進められた街道だ。いまでは国道4号というそれこそ大きな道に引き継がれているが、春日部駅の北側を通っているこの道はその旧道。江戸時代まで、このあたりには日光街道4番目の宿場町・粕壁宿があった。
あれ、春日部? 粕壁? と気になった方もいるかもしれない。もともと春日部の町の名は南北朝時代に新田義貞の家臣・春日部氏が治めたことに由来し、当初は春日部と書いた。江戸時代に粕壁に変わり、1944年に春日部の名に復したということのようだ。まあ、こうした地名表記の揺れはよくあることらしいから、つまるところわかればいいのである。