帰るところもなくなった生活を賭けて、托鉢と接待、野宿だけで何年も何周も遍路を巡礼する「草遍路」たち。“普通”ではない生き方を続ける彼らはいったいどのような人生を送ってきたのだろう。
ここでは、ノンフィクション作家として活躍する上原善広氏の著書『四国辺土 幻の草遍路と路地巡礼』(KADOKAWA)の一部を抜粋。ドヤ街暮らし、ホームレスを経て、草遍路という生き方に辿り着いた男性ヒロユキさんの証言を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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女性とは付き合ったこともない
ひどく奥手だということもあり、女性と付き合ったこともない。
ゲイというわけでもなく、対人関係の構築ができないことから男女とも交際が苦手で、ホームレスの援助活動をしていた女性に告白したこともあったのだが、断られて終わってしまった。
「手をつないだことくらいはあったかもしれないけど、キスもしたことないな。ぼくは男づきあいも苦手だけど、女づきあいも苦手だからな。できれば誰とも会わないで生活したいと思ってたから」
風俗も行ったことがないし、海外旅行の経験もない。後年、こうした宗教活動を行う一種、純粋なところは以前からもっていたようだ。
「まるで『男はつらいよ』の寅さんですね」
そう言うと、ヒロユキは「へえー」と言って他人事のように感心している。
48歳から段ボールハウスで暮らすように
「39歳(1980年頃)からずっと釜ヶ崎でいろんな仕事したけど食えなくなって、48歳のとき路上に出て段ボールハウスで暮らすようになったんだけど、この方が宿代もかからないから生きやすいと思ったな。それくらいドヤ代に悩まされてたんだ。ただ1ヵ所に留まっていると、他の人と付き合いができてしがらみになるから、それが嫌だったな」
天王寺美術館と動物園を結ぶ、歩行者通路に段ボール小屋をおいて暮らしていた。小屋の辺りからは動物園のフラミンゴがよく見えたという。
私は高校生のとき、釜ヶ崎でホームレス支援のボランティアをしていたので、全くの偶然だが、ヒロユキの段ボール小屋を知っていた。ヒロユキの段ボール小屋には「戦争反対」など、いろいろな政治的メッセージが書かれていて、よく目立っていたので覚えていた。幼い頃からここをよく行き来していたので、ヒロユキとは何度かすれ違っていたことになる。これも何かの奇縁としか言いようがなく、「遍路の縁」ということになるのだろう。
信仰のない私でもこの数々の奇縁には気味悪く感じるほどだから、信仰がある人にはより切実な思いがすることだろう。
釜ヶ崎で20年ほど暮らした後、四国に行くきっかけがあった。
「父だったか母だったか、亡くなったからって兄弟から突然、連絡がきたんだ。『遺産があるから、直接会ったら払う』って、司法書士だったか弁護士だったか、ぼくを探し出して連絡してきたんだ。でも会いたくないからすぐに逃げることにして、自転車で広島まで行って、そこからしまなみ海道を渡って四国にはいった。そしたら白い服きて歩いてる人といっぱい会って、そこで初めて四国遍路のことを知ったんだ。もちろん、それまでに四国遍路って言葉は知ってたけど、実際に見たのは初めてだった。それで自転車で四国遍路してから、大阪に戻った。それが最初の遍路だった。メモには、出発したのは2000年の6月13日になってるな」