日本人奴隷を使役した実態
朝鮮人が日本人奴隷を使役していた事実は、1408年の『太宗実録』で確認することができる。この記録によると、日本国王・足利義持が派遣した船の中に、当時、朝鮮人のもとで労働に従事していた日本人女性が逃げ込んだという。その女性は、朝鮮金海府の朴天なる人物の奴隷だった。
この日本人女性が、いかなる経緯で朴天の奴隷になったのかは不明であるが、かなりの高値で取引されたようだ。女性の奴隷が高値だったのは、家事労働や農作業に従事させるだけでなく、売春させることで金儲けができたからだろう。これにより、朝鮮人のもとに日本人奴隷が存在していたことが具体的に明らかになった。
その後の顚末はどうなったのであろうか。朝鮮サイドでは府使を遣わし、日本の船に逃亡した日本人女性を返還するよう求めた。その際、奴隷を返還しないことは、これまでの交隣の道に背くものだと抗議した。奴隷は主人の所有物なので、ある意味で当然の要求といえるかもしれない。
しかし、日本サイドの使者は「日本に私賤はいない」と明言し、朝鮮側の言い分を突っぱね、日本人女性の奴隷の返還を拒否した。そのような経緯を踏まえて、太宗は日本人奴隷の売買を禁止する法令を発布したといわれている。一連の交渉は、一種の外圧といえるのかもしれない。
15世紀初頭の段階において、まだ朝鮮では奴隷制度があり、その売買も許されていた(15世紀の終わり頃に禁止)。一説によると、当時の朝鮮における奴隷の割合は、相当に高かったという。太宗がいかなる理由によって、日本人奴隷の売買を禁止したのかは不明であるが、社会に悪影響を及ぼすことが要因なのは明らかで、朝鮮に連行された日本人奴隷の存在自体が問題視されていたといわれている。
当時、売買された日本人奴隷以外に、日本から朝鮮に渡海する日本人(商人など)が多かったという。釜山では日本人の遊女が売春を行っており、日本から朝鮮に仕事で訪れた商人が利用していた。一方で、日本人女性の奴隷が売買されて朝鮮に送り込まれると、遊女に身を落とした例もあったと推測される。
このような事態は風紀や秩序を乱すことになったので、朝鮮側では頭痛の種だったという。また、奴隷商人が朝鮮へ連れ去った日本人は、現地で農業に従事する者が少なくなかったが、船で日本に逃亡するなどしたので、やはり何らかの問題が生じた可能性があろう。