現在の価値観ではとうてい理解できないが、日本ではかつて人身売買が公然と行われていた。一人あたりの値段は現在の価値で約2、3000円。なぜ、それほどまでの安値で人が売買されたのか。そして、どのような人がそうした取引に関わっていたのだろうか。
ここでは、歴史学者の渡邊大門氏による『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書)の一部を抜粋。16~17世紀の日本で行われていた人身売買の実態に迫る。(全2回の2回目/前編を読む)
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二束三文で売られた人々
永禄9年(1566)2月、小田氏治の籠る常陸小田城(茨城県つくば市)は、上杉謙信の攻撃で落城した。落城直後、城下はたちまち人身売買の市場になったという。
その様子は『別本和光院和漢合運』に「小田城が開城すると、謙信の意向によって、春の間、人が20銭・30銭で売買されることになった」と記されている。この一文を読む限り、人身売買が謙信の指示に拠ることは明らかである。つまり、謙信の公認だったといえよう。おそらく城内には、周辺に住んでいた農民らが安全を確保するため逃げ込んでいたのだろう。戦争になると、農民らが城へ逃げ込むことは珍しくなかった。
ちなみに20銭といえば、現在の貨幣価値に換算して、たったの約2000円にすぎない(30銭は3000円)。おそらく、雑兵たちは相当な数の女・子供(あるいは男も)を生け捕りにし、奴隷商人を介して売ることにより、利益を得ていたのだろう。まさしく戦争に出陣する「旨み」であり、将兵にとって賞与のようなものだった。なお、城下での攻防戦で、人や馬が連れ去られた例はほかにも報告されている。
それにしても、20銭、30銭とはかなりの安値である。数が多いので供給過多となり、薄利多売になったのであろうか。フロイスの『日本史』によると、九州ではかなりの安値で売買された例が報告されている。売られた者は家事労働などに使役されるか、あるいはさらに転売されたのかもしれない。人身売買は、過酷な現実であった。また、連れ去られた人々は、金銭を負担することで買い戻されることもあった。
こうした人々は、城下で将兵自身によって売買されたか、あるいは奴隷商人を介して売られたのだろう。奴隷商人にとって、どれだけの利益があったのかは、残念ながら判然としない。戦場では武器や兵糧を取り扱う商人のほか、奴隷を売買する商人も存在した(両方を担当していたかもしれない)。つまり、戦場における人の連れ去りは、大袈裟に言えば、一種の商行為として彼ら商人の懐を潤わせていたのである。
大坂の陣における乱取り
乱取りは、以後の戦争でも止むことがなかった。徳川家と豊臣家の最終決戦の大坂の陣(慶長19年〔1614〕~同20年〔1615〕)でも、乱取りの実態を確認することができる。『義演准后日記』によると、慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣で勝利した徳川軍の兵は、女・子供を次々と捕らえて、凱旋したことを伝えている。大坂城内には将兵だけでなく、普通の人々も逃げ込んでいたので、落城後はそうした人々を捕縛して連れ去ったのである。