1ページ目から読む
3/3ページ目

室町・戦国時代の売買春

 戦場で捕らえられた人々のうち、特に女性の一部は売買春に従事させられた可能性がある。すでに中世においては、売買春のシステムが整っていた。以下、この点を詳しく確認することにしよう。

 傾城(傾国)という言葉があり、それは美人・美女を意味するが、転じて遊女を示すようになった。中国の正史の一つの『漢書』外戚伝には、「北方に佳人有り。(中略)一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く」と書かれている。この記述を典拠として、傾城とは「美女の色香におぼれて城や国が傾く」こと、つまり国が滅びることを意味するようになった。中国の春秋時代(紀元前770~同403)における、呉王の愛姫・西施は「傾城の美女」として非常に有名である。

『漢書』外戚伝を出典として、傾城は日本でもたびたび遊女を示す言葉として使用されてきた。したがって、日本の史料であっても「傾城(屋)」と書かれていれば、間違いなく遊女あるいは遊女屋を示す。

ADVERTISEMENT

 傾城に類した表現としては、「女屋」という言葉がある。「女屋」とは遊女屋の略で、遊女を抱えて客を遊興させる家のことを意味する。「東寺百合文書」所収の「廿一口方評定引付」永享9年4月の条によると、「女屋」が洛中を徘徊し、遊戯(男性客と楽しむこと)することを禁止している。「女屋」に雇われた者が洛中で客引きし、遊女と遊ばせていたと考えられる。

「東寺百合文書」には、東寺(京都市南区)の法師が女屋の徘徊を禁じたものがある。女屋の客引きや遊女の徘徊を嫌った東寺は、茶商人に対して茶を遊女に振る舞わないように命じていた。それは、茶商人と遊女がグルになって、僧侶らを売買春に誘い込んだということだろうか。その辺りの詳細は不明である。なお、江戸時代の茶屋は、売春を行っていたことを申し添えておこう。

©iStock.com

「女屋」については、今までほとんど取り上げてこられなかったが、内大臣・万里小路時房の日記『建内記』嘉吉元年(1441)4月16日条には、関係する記事が見える。次に内容を確認しよう。

 この記事によると、近衛万里小路に「女屋」の者が十徳(下級武士の着る服)を着て立っており、尺八を腰に差している男を待っていた。のちに聞くところによると、この男たちは女屋において、傾城をめぐって争っていたというのである。つまり、「女屋」が売春に関わる施設であり、多くの遊女を抱えていたことを示している。

 このような売春施設は、室町時代以降の京都各地に存在したことが知られている。それらを列挙すると、畠山辻子、近衛万里小路、錦小路町、東洞院、地獄辻子、加世辻子などである。辻子(あるいは図子)とは、中世に新しく開発・造成された小路のことで、その道筋には遊女街が形成されるなど特異な都市空間として認識されていた。

 さらに天文年間と思しき「蜷川家文書」のなかのある史料には、浄花院(京都市上京区)の長老から「傾城を呼べ」との指示があったらしく、そのほかの理由と合わせて訴訟沙汰となっているが、詳細は不明である。寺院といえば聖域なのであるが、遊女らが関係したことがうかがえる。

 このように洛中においては、「女屋」という買売春の施設が整っており、そこで売春に従事する女性がいたのである。

【前編を読む】釜山で売春する日本の遊女、朝鮮人に買われた日本人奴隷…本当にあった“アンダーグラウンド”な“人身売買”の実態