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 徳川方に与した阿波の蜂須賀軍は、約170人の男女らを捕らえたといわれている。その内訳は、女が68人、子供が64人とその多くを女・子供が占めていた。40人程度が成人した男だったのだろう。捕らえられた女・子供が多い理由は、これまでの戦争と同じと考えられる。

「大坂夏の陣図屛風」(大阪城天守閣所蔵)は大坂夏の陣を描いた屛風絵で、逃げ惑う戦争難民の姿が見事に活写されている。左隻全面には、戦場から逃亡する敗残兵や避難民だけでなく、徳川軍が略奪・誘拐・首取りする姿が描かれている。なかでも注目されるのは、将兵に捕まった女性たちの姿である。将兵は戦いに集中せず、むしろ人やモノの略奪に熱中していた。それが彼らの稼ぎとなっていたからだ。そして、捕縛された人々は奴隷に身を落とすか、売買されたのである。

 こうした地獄絵図のような乱取りは、戦国時代を経て織豊政権期に至っても続き、さらに最後の大戦争となった大坂の陣まで脈々と続けられたのである。

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『信長公記』に見る乱取り・人身売買

 各地の戦場で乱取りや人身売買が横行していたが、織田信長の時代にも見られた現象である。以下、特に売春の例について確認しておこう。

倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史(星海社新書)

 天正3年(1575)、織田信長は越前国で蜂起した一向一揆を討伐した。その際、3・4万人に及ぶ人々が、殺害または生け捕りにされたという(『信長公記』)。殺害または生け捕りにされた人々は、将兵だけでなく農民や女・子供も含まれていた。生け捕りにされた農民や女・子供は連行され、奴隷のようにこき使われるか、または売買して金銭に換えられたに違いない。つまり、彼らは戦利品として扱われ、出陣した将兵にとっての賞与のようなものだったのだろう。

 ところで、信長が京都を支配しているとき、女性の売買が問題となった。『信長公記』天正7年(1579)9月には、次のような記事がある。

 去る頃、下京場之町(京都市下京区)で門役を務めている者の女房が、数多くの女性を騙して連れ去り、和泉国堺(大阪府堺市)で日頃から売っていた。この度、この話を聞きつけ、村井貞勝が召し捕らえて尋問すると、これまで80人もの女性を売ったと白状した。

 この女性は、門番の妻という普通の女性だったが、裏では女性の売買に関わり、少なからず収益を得ていた。この場合の女性を騙したという手口が不明であるが、数が80人というから尋常ではない。誰かが京都所司代の村井貞勝に密告したのだろうか。京都所司代には、京都市中を取り締まる役割があった。

 わざわざ和泉国堺で女性を売ったのは、商人が多い土地柄ということに加え、堺の商人にとってもその後の転売がしやすかったからだろうか。こうした話は、やがて織田政権下で京都所司代を務める村井貞勝の耳にも入った。織田政権下においても人身売買は禁止されていたので、このあと女性は厳しい処罰を受けたのである(その後、女性がどうなったかは不明)。以下、戦国時代における売春の問題について、もう少し考えてみよう。