嫌っていたカラオケも好むように
運転免許を取りたがったのも、歩くのがつらかったからだろう。
98年春から個人レッスンについた。個人レッスンを始めて試験場で合格するまで、いちばん短くて2ヵ月、平均6ヵ月だというが、ナンシーの場合、それではおさまらなかった。週2回の練習ということで始めたが、それが週1回になり、1年後には月1回になった。それでも2000年には熱心さをやや取り戻し、その年の秋、1回で仮免試験に受かった。
本試験は2001年4月、3回目で合格した。教習300時間、3年かけて免許を取った人は初めてだ、よくあきらめなかった、と1000人以上に教えたチューターはナンシーをほめた。合格するとすぐにドイツ車のゴルフを買い、ベテランのドライバーと同乗してだが、箱根に出掛けた。
以前は嫌っていたカラオケも93年頃からは好むようになっていた。ある夜、いとうせいこうが銀座のカラオケボックスから、作家の宮部みゆきといっしょにいるんだが、と電話をすると「駆けつけてきた」。そのときナンシーが歌った内藤やす子の「弟よ」は、宮部みゆきによると「ソウルがこもった」感じだった。
宮部は、ナンシーが批評する番組とタレントの名前の7割まで知らなかったが、「言語化できないことをさらりと表現できる」ナンシーのコラムのファンで、彼女の訃報に接したとき、司馬遼太郎に死なれたときの司馬ファンはこんな気持なのだろうと思った。
約束を果たさないまま、逝ったのが心残りだったのか
「あ、いまナンシーが来た」
ナンシーが亡くなった6月12日未明、病院に駆けつけた「テレビ消灯時間」の担当者・朝香寿美枝は、霊安室でナンシーの意識を感じた。そのナンシーは、「あちゃー、(死んだのは)夢じゃなくって現実みたいだな」とつぶやいていた。
2歳下の妹・真里は、ナンシーの着替えを祐天寺のマンションに取りに行った。部屋の照明もクーラーもつけたまま、流しには洗い物が放置され、まだナンシーの日常はつづいているようだった。
亡くなった日の夜、「CREA」の連載対談を、3代目の相手リリー・フランキーと中目黒のなじみの焼き肉屋で行うことになっていた。リリー・フランキーは、対談相手の不在を承知で店に出向いた。あきらめきれない感じの関係者が三々五々集まったとき、店内をすーっと風が通り、CDの音楽が突然ぴたりと止まった。店のママは、あ、いまナンシーが来た、と思った。
「まじめな人でしたから、あの人は。うちで対談するという約束を果たさないまま、逝ったのが心残りだったんだと思います」
その日、病院の要請で行政解剖されたナンシーの遺体は霊柩車にのせられ、10時間以上かけて青森に帰った。通夜と告別式は6月16日だった。「週刊朝日」の「小耳にはさもう」の担当者・高橋伸児によると、その日の羽田発青森行き朝一番の飛行機の客のほとんどが喪服姿の編集者と関係者だった。
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