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《ナンシー関没後19年》「約束を果たさないまま、逝ったのが心残りだったんだと思います」稀代のコラムニストの知られざる“晩年”

《ナンシー関没後19年》「約束を果たさないまま、逝ったのが心残りだったんだと思います」稀代のコラムニストの知られざる“晩年”

『人間晩年図巻』より #2

2021/12/01
note

 こういうのってハナでせせら笑ってもダメなんである。相手はこれだけズレた事をやってる人間なんだから「ハナでせせら」という意味など通じない。無視しても無駄。怒らないとだめなんだけど、こんなもの怒るの嫌だしなあ、という「とほほー」によって出来る国民感情の弛緩部分に巣喰っているのである

(『テレビ消灯時間』) 

「現代史」をテレビ評で書く

 最初は売り込みに際し過剰におずおずとして、不審がられながら何時間も無言のまま「ビックリハウス」編集部で座っていたりした関直美だが、ナンシー関になりかわって仕事は増えた。

 1988年、26歳頃には「週刊プレイボーイ」「月刊カドカワ」「サンデー毎日」等から注文を受け、89年には「月刊プレイボーイ」で内藤陳の読書コラム「読まずに死ねるか」のイラストを担当した。多くは「消しゴム版画」の注文であった。ステッドラー社の大きなサイズの消しゴムの版面に人物の特徴を掴み出し、そこに「ひとこと」批評的な文言を添える手法(プロ野球監督夫人で、テレビでの奔放・乱暴な発言で一時知られた野村沙知代の肖像に「おだまり」、またオウム真理教の標的にされながら実態解明につとめたジャーナリスト江川紹子には「紹子の春」と添えるなど)が受け、連載13本におよんだ。

 89年、ヒノデワシという文具メーカーがナンシーを訪ね、版画用の消しゴムをつくりたいと申し出た。試行錯誤の末に「はんけしくん」の商品名で売り出し、売上げの10パーセントを占める主力商品となった。だがナンシー関は、この頃からテレビ批評文に力を入れ、「消しゴム版画」の方は従、いわば「サインがわり」または「商標」と化していた。

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ナンシー関氏が遺した消しゴム版画 ©文藝春秋

山藤章二はナンシー作品を高く評価

 この時期、ナンシー関は珍芸タレントと目され何度かテレビに出演した。しかし92年末、「CREA」誌上で大月隆寛との連載対談が始まった頃、出演をやめた。「業界人」になってしまえばテレビ批評はできないと考えたのである。

 93年は彼女の転機であった。年初から「週刊朝日」のコラム「小耳にはさもう」が、10月からは「週刊文春」で「テレビ消灯時間」が始まり、いずれも彼女の死までつづいた。

 ナンシー作品、とくにその文章を高く評価する山藤章二は、「評伝」の著者・横田増生にこのように語った。

「ナンシーの場合は、自分の美意識にそぐわないターゲットを見つけたときに、本気を出しますよね。親の仇を探して、10年、20年という執念のようなものが感じられる。(……)ナンシーの審美眼にそぐわないのは、“夜郎自大なヤツ”とか“世間をなめているヤツ”、“羞恥心のないヤツ”とか、この種の輩(やから)ですね」

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