最後の「何いってんだかなぁ」は自分の発言に対する批評「自分ツッコミ」で、ナンシーの文体の特徴である。「心に1人のナンシーを」といったのは、のちに「CREA」誌上で対談を連載した民俗学者の大月隆寛だが、それは誰でも自分に対する批評眼を忘れるな、の意味であった。
「町内」を代行した民放テレビ
1960年代に番組の基本形を開発しつくした感のある民放テレビは、70年代には視聴者参加の方向へ向かった。その最初の番組が71年、素人の少年少女に歌わせ、最後に各芸能プロダクションがせり落とす『スター誕生』である。78年には、歌謡番組『ザ・ベストテン』が始まり、80年、漫才ブームを起こす『THE MANZAI』が放映された。関直美がナンシー関となった85年には、久米宏がキャスターをつとめる『ニュースステーション』が始まった。
80年代後半の民放テレビ、ことにトーク番組とワイドショーは日本社会の反映そのものと思われた。トーク番組に出没するタレント(お笑い芸人)たちが、失われて久しい「町内の人々」を代替するなら、ワイドショーは「町内の噂」の代行者である。そこで語られることはすべてが「楽屋落ち」または「全国的ウチワウケ」の様相を呈するのは、すでに「全国一町内」なのだと考えれば腑に落ちる。
「とほほー」によって出来る国民感情
そのような民放テレビの好業績と極端な大衆化、消費人材として多数の「タレント」「お笑い芸人」を必要とする時代に、ナンシーはテレビとのつきあいを深くした。元来、強度の近視で、普段は人の顔もよく認識できない彼女だから、テレビの生理である「クローズアップ」と元来親和性があった。ナンシー関は部屋に閉じこもって画面を凝視しながら、彼らの「騒々しい芸」による自己主張と、「テレビ的人間関係」の中での生き残りへの努力を批評的に見ようとした。それはバブル経済前後の日本社会の姿そのものであった。
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新聞のテレビ番組表、日本テレビ、1997年4月2日、午後7時から8時54分までの番組の「紹介」である。ここでは意味はもとめられていない。何かを伝えようとする気もない。なのに冗談のつもりでもなさそうだから世も末なのである。
限りなくバカの方へ突進する、あるいは、けたたましい無内容をめざして空転するテレビと、それを軽んじつつけっこう見ている私たちの関係を、ナンシー関はこんなふうに言語化した。