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「ナンシーの絵は、その文章とは対照的にゆるい作りになっていて、全体でバランスがとれているんです。(……)まずコラムニストとして100点ですね。それに絵を加えて120点、さらに消しゴムの横に添える一言で130点」

 究極の大衆化のさなか、民放テレビの番組は「派手で貧乏くさい」空気を全身にまとった。ナンシー関はそれを「イブ・サンローランの便所スリッパとか、松阪牛しゃぶしゃぶ食べ放題ただし制限時間90分」みたいなものだといった。

「どうよ、27時間テレビ」

 ナンシー関は「見た自分が悪かった」と、ときどきため息をついた。しかし、テレビ批評をしているというより、テレビ内部の現象から「現代史」を見通すという、まったくあたらしいジャンルの開拓者であり実践者である身としては、テレビとの骨がらみのつきあいはやむを得ないことだった。

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 民放で「27時間テレビ」という長い番組(?)をやっていた日、ナンシーは友人と電話中、「どうよ、27時間テレビ」と尋ねた。別に答えを期待するでもなく、「どうなってんのよこの湿気」とおなじ調子で口にしただけだったが、友人は「何ソレ?」といった。

©文藝春秋

 虚を衝かれたナンシーは書いた。

 私はその友人に憧れた。「フジテレビの27時間テレビ」なんていう、人間にとって人生にとって本当に瑣末なことに惑わされないという正義。27時間テレビのことをふと思ってしまう私は、何と情けない人間なんだろうか

 

「何ソレ?」と言える人間に憧れながらも、「何ソレ?」で済ますわけにもいかないという、この、何というのか、人間の業?(半疑問形)どうでもいいか

(「週刊文春」99年7月29日号)

運転免許を3年かけて取る

 1995年、ナンシー関は目黒区祐天寺にマンションを買い、妹との同居を切り上げた。買うにあたって、頭金は出せるけれど内装をあたらしくする資金がないから貸して、と田舎の母親に電話した。直美ちゃんのお嫁入りのために貯金してあるから大丈夫、と母親はいった。するとすぐに、銀行が貸してくれることになったから、もういい、と連絡があった。すでに彼女の実績と知名度が「信用」になっていたのである。

 そのマンションに住んだ彼女はほとんど引きこもり状態でテレビを見つづけ、原稿を書きつづけた。原稿のあがりは遅かったが、一度も落としたことはなかった。

 ナンシーの体重は増えた。というより、古い友人には体積が倍増した印象だった。体重は高校以来量ったことがない。90年代半ば以降には、たまに外出すると20メートルから30メートル歩くごとに電柱につかまって休んだ。それでもタバコはやめず、1日にショートピースを2、30本吸った。酒席では人の3倍くらい飲んだ。