東日本大震災から10年が経った2021年夏、「復興五輪」の旗を掲げた東京オリンピック・パラリンピックが開催された。海外から訪れた観客や選手、関係者たちに道半ばとはいえ復興の進んだ被災地の姿を見てもらい、感謝の気持ちを伝えようという「復興五輪」のコンセプトは、残念ながらコロナ禍によって実現が困難になった。
しかしアジェンダ達成を困難にしたのは新型コロナウイルスだけだったのだろうか。都、国、組織委員会は、果たしてどれだけ「復興五輪」というアジェンダに誠実に向き合ったのか。被災地のリーダーの一人として東京2020に関わった、宮城県の村井嘉浩知事に話を聞いた。(全2回の1回目。#2へ続く)
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オリンピック招致表明に、正直「今やるの?」
――2011年3月に東日本大震災が起きて、被災地がまだまだ大変な状況だった7月に、石原慎太郎元東京都知事が2020年オリンピックの招致を表明しました。その動きをどうご覧になっていましたか。
村井 いや、正直、「今やるの?」と。資材もない、人もいない、こちらはもうそれどころじゃないという時期で。たとえば「オリンピックやるから復興予算を確保する期間を何年間か長くします」とでも言ってもらえれば少しは納得するかもしれないけど、それもない。いや、これはますます復興が遅れるのではないか、というのはありました。
――でも招致委は「復興五輪」でいくぞと。9年後に元気な被災地の姿を見せようという勢いでしたよね。
村井 それどころじゃない。こちらはほんとてんてこまいでしたから。その中で、「え、オリンピックやるの?」って。その先の4年後(2024年)でもいいんじゃないかと思いました。
被災地は蚊帳の外の「復興五輪」
――事前に被災地のリーダーに相談はあったんですか。
村井 ないです。「復興五輪」というアジェンダも含め、我々抜きでどんどん決まっていったという感じで。我々は蚊帳の外という印象でしたね。
――例えば、9年後ですが現実的ですか? とかもなかった。
村井 特になかったです。もちろん、ある程度の骨子が固まって発表する段階では連絡が来ました。でもその段階では引き返せない。いやいやって言ってもどうしようもないわけですよ。