「復興五輪」はなぜ実現できなかったのか。東京オリンピック・パラリンピックで見えた問題点を、村井嘉浩・宮城県知事と振り返る。後編は意思決定が遅く、責任の所在が見えにくい、日本型組織の実態について語る。(#1から続く)
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あらゆることが決まらないし、返事もこない
――東京2020に関わった方の話を取材していると、意思決定の過程や責任の所在がわからないとよく聞くんですよね。
村井 その通りです。やはり意思決定する人を一人置いて、その人が責任をとらないといけません。五輪担当大臣がいて、組織委には元総理がいて、都知事がいて、そこにまた我々みたいのがぶら下がっていて、頭が2つも3つもあるから本当に意思決定が遅かった。これは五輪のような大会を運営する上で最大の問題だと思いましたね。
――意思決定が遅いというのは、例えばどんなことで感じましたか。
村井 例えば式典で、誰が挨拶するとかどこに座るとかさえなかなか決まらないし、返事も来ない。また大会中も、県内に滞在している大会関係者に新型コロナ感染者が出たというときに、受け入れ側としてはどこのホテルにいるのか、どこの国の人なのか、どういう行動をしてきたのか、内々にでも情報が欲しい。でも、要求しても詳細を全然教えてくれないし、情報提供も遅いんですよ。意思決定する人がいないからです。
「復興の火」をどこに展示するのか問題
――他にもありましたか。
村井 とにかくたくさんありました。聖火を被災3県で巡回展示する「復興の火」でも、「火をどこに展示するのか問題」が起きました。「復興の火」は宮城だけのものではないので、人が集まりやすくて、かつ火災が起きない安全な場所ならいいですよねと、我々は準備を進めていたのですが、これが決まらないんですよ。
IOCの考え方なのか、聖火が同じ市町村に何度もいくのはダメという話があって、そうなると聖火リレーをやる場所ではなく、別の地区に持っていってほしいとか。いろいろと理解し難いことを言われました。
――なるほど。
村井 宮城県としては、石巻市から聖火リレーのスタートをしたいと2017年に申し入れをしていたんです。でも近くに安全に降り立てる飛行場があるかとか、直行便がないとかで、なかなか決まらなかった。何年も時間がかかった末に、結局、航空自衛隊松島基地に聖火が到着することになりました。松島基地で「聖火到着式」をやって、そこから石巻に持っていって式典をやるという。
でもこんな単純な話、我々に任せてもらえばタタターンてすぐに準備できましたよ。聖火をどこに下ろして、どこで点火式やって、どこに展示して、どこをリレーしてとか、地元のことは地元の人が一番わかってる。こんな単純なことだけのために、ずいぶんと長い時間がかかりました。