招致決定をテレビで見て「本当にできるのかな」と
――とにかく人と資材がとられてはたまらんよと。一方で、「復興五輪」として動き出したことに期待はありましたか。
村井 それはありました。どうせやるなら五輪をきっかけにして、さらなる復興に繋げたいとは思って。それは期待しましたよね。
――ところが2年後の2013年に、当時招致委員会の理事長だったJOCの竹田恆和氏が「東京と福島は250キロ離れている。東京は安全です」と発言して批判が起きました。
村井 あの発言には私もがっかりしましたね。安心を強調したかったのかもしれませんけど、もう少し言い方があるでしょうと。福島に住んでいる人もいるわけですし、福島の近くで生活している人もいる。むしろ福島の安全をアピールしてほしかったです。
――招致が正式に決定したときはどう思いましたか。
村井 招致決定はテレビの中継で観ました。うれしいという気持ちは特になく、本当にできるのかなと。被災地はまだオリンピックの話をする余裕なんてなかったですから。皆さんがまだまだ仮設住宅に入っていましたし、災害公営住宅もほとんどできていない時期ですからね。てんやわんやなんですよ。寒いから断熱材をもうちょっと増やさなければとか、エアコンをもうひとつ入れようとか。
――そうすると一気にオリンピックが身近に感じられたのはやはり2016年の長沼ボート場の一件ですか。
村井 その前に宮城スタジアムでサッカーの開催が決まっていたのですが、財源は本当に大丈夫なのかと不安でした。オリンピック仕様にしなければならないので、大きなスクリーンを設置しなきゃとか、トイレなどをバリアフリーにしなきゃとか、芝も全部張り替えなきゃとか、お金がないのにどうするのかという心配があって。そんな中で、長沼のボート場について連絡があったんです。