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2021/12/12

source : 文藝春秋 2022年1月号

genre : エンタメ, 芸能, 映画, テレビ・ラジオ

松田優作との“最後の会話”

――國村さんも、松田さんが亡くなられてから病気のことを知ったのですか。

國村 そうです。まさに出会ってちょうど1年後の1989年11月6日の朝、テレビをつけたら訃報が流れていて「ええっ!?」と。いきなり星が流れてどこかへ行っちゃった、という感じで……。

――最後にお会いになったのは、いつでしたか。

國村 その年の夏くらいです。LAから日本に戻って、1回だけ会っているんです。「お前、いっぺん遊びに来い」と言われていたので、連絡して。銀座に優作さんの所属しておられた事務所があって、そこにお邪魔したら、そのまま車で阿佐ヶ谷まで飲みに連れて行ってもらいました。それが夕方の6時から7時くらいちがうかな。そこから3時くらいまで。

――えっ、亡くなる少し前に、3時までですか!

國村 今考えたら、本当はしんどかったんじゃないかと思いますが。でも事務所から1人、若い男性が同行して。LAでは2人で飲みに行っていたから「日本ではお付きの人がおられるんやな」と思っていたけど、あれは自分にもし何かあったら、ということだったんでしょうかね。

――阿佐ヶ谷は、松田さんの妻・美由紀さんの地元ですよね。

國村 それが関係しているのかな。スターロードという商店街にある、優作さんの好きなお店に連れて行ってもらいました。割と年配の女性が1人でやっていらっしゃって。カウンターだけの、10人入ったらもうギチギチみたいな、お世辞にも綺麗とは言えないお店(笑)。でも色んな人が来てたんかなぁ。サイン色紙がいっぱいあったんです。優作さんがそれを指して「俺のがあそこにあるだろ」って言うんだけど、僕は松田優作のサインを見たことがないからわからなくて。「えっ、どれですか」って聞き返したら、ちょっとむくれた顔をしてね(笑)。

――想像するとかわいらしいですね(笑)。その時も映画の話ですか。

國村 そうですねぇ。本当にあの人は、映画が大好きだったんですよね。もちろんそんなお店やから、長い時間ずっと2人でしゃべっていたわけじゃなく、僕らの隣に座っているお客さんらが突然話しかけてきたりもしてね。優作さん、普通に話していた。全然スターっぽくない。僕は「へぇー、こんな気さくなところがあるんやなぁ」とびっくりして。

 優作さんが「この店の五島うどんが大好きだ」というので、締めにうどんを食べて、3時頃に表に出ました。

 タクシーを拾うまでふらふらと、人通りのほとんどない道を歩いて。僕が何だったか、しょうもないものを手土産に持っていっていて。で、「これ、ほんまにしょうもないものですけど」と言って渡したら、優作さん、「しょうもねぇなぁ」と言って、どこかその辺にポンと置きはった。僕が「えーっ!?」と思っていたら、おどけて「ウソだよっ」と言って(笑)。今度は僕が「別にいいっすよ」とむくれる番でした。

 そういうしょうもない会話をして、じゃあまた、と言って別れたんです。それが、僕と優作さんの最後の別れになりました。

松田優作との別れはあまりに唐突だった ©文藝春秋

――まさか最後になるとは思わないような別れ方ですね。

國村 そうなんです。だからテレビを見た時、狐につままれたようで、現実感がなかったです。

――夏に「じゃあまた」と言って、秋に亡くなった松田さんは、もしかしたら後輩である國村さんに、役者としての可能性の種のようなものを託したかったのかもしれないですね。

國村 まさに僕としては、優作さんは無意識だったんだろうけど、何者でも無かった僕に種をまいてくれたような気がしています。僕は優作さんにもらったその種をちゃんと発芽させて、花を咲かせないといけない。ひょっとしたらあの人がやりたかったかもしれないことで今の僕ができることがあれば、代わりにやらなあかんのやろなと思っています。

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