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どうせディスるならちゃんとディスって… ドイツ人が「言われたら本当に謝るしかない」ツボとは

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 そして、皆様ご存知のドイツ政治史上の大問題。

 戦後復興のためにトルコ・ギリシャ・イタリアから人材を「ガストアルバイター(客人労働者)」という名で呼び寄せて、ドイツ人は彼らが母国に帰ってくれると勝手に思っていたところ、ドイツで生活基盤を築いた人々がそうそう帰国するわけもなく、居住し続けたことから生じた各種の難題。

©iStock.com

 社会的偏見や、閉鎖コミュニティ化による隔絶、子孫世代の「母国語もドイツ語も充分に話せない」社会不適応などなどの諸問題。これはもう、巷間言われている通り、人間的な現実を無視したドイツの政策による「深い不義理」が原因です。

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 が……、個人的には事象そのもの以上に、ドイツがそれを意図的に無視しつづけてきたことこそ、真に問題視すべき重点だろうと思います。

 1980~90年代ごろには、たとえば「移民系コミュニティが社会に適応できていないことを認めたら、彼らを社会不適応者として差別するムーヴの拡大につながる」ゆえに「不適応問題はそもそも存在しないことにしておくのが正義であり理性!」みたいな、ものすごい間違った「清潔論理」がまかり通っていたんですね。

 あってはならない問題はあってはならないゆえに存在しない、という。これぞインテリ系の偽善以外の何物でもない。そのため、ナチ時代におけるホロコースト認識と同じく「世間でみんな知っていたけど、知らないことになっていた」状態となり、現実的な対応がひたすら先延ばしにされたのです。この点についてドイツ人がようやく現実を直視しながら動き出したのは2000年代以降です。

どうせドイツをディスるなら…

 私は「ドイツ下げ」系の論者に言いたい。

 だからどうせドイツをディスるなら、坊主憎けりゃ袈裟まで的に何でもかんでもディスるのではなく、この「清潔論理」のような真に討つべきツボをちゃんと突いてくれ。でないと、アンチドイツ教の固定客以外には逆効果だ!

 …と。

 この教訓から何が言えるのか。それはおそらく、現実を無視した「~であるべき」的な是非論の膨張はよくないということです。

ドルトムントの街並 ©iStock.com

 日本の場合、技能実習生受け入れという政策によってもう実質的に移民問題に直面するようになったわけで、ここで「見て見ぬふり」をすれば、まさにそれこそ「ドイツの失敗」を繰り返すことになります。

 だからこそ移民ヘイトの問題にしても移民系犯罪の問題にしても、「~かもしれない」的な仮定を膨らませて思想補強のためにいじり回すのではなく、社会機能をよりマシな状態で安定稼働させるには実際どうしたらいいのか、という観点で考えたほうがいいように思います。

 日本にはすでに外国人コミュニティがいくつか存在し、そのいくつかは日本社会から“浮いた”存在になっています。そしてエリアの自治体が様々なアプローチでコミュニティとの連携を図ろうと四苦八苦している。そういう「リアル」の状況を知り、考え、是々非々的に評価しながら状況改善を目指すような展開が広まらないと、今後やってくるであろう移民拡大の、というか「人材の広域流動」時代への対応は無理でしょう。

 そういう面でドイツのこまごました具体例が参考として役に立つのであればよいのですが、今のままだと現実の面倒ごとをすべてNPOや地方自治体が背負い、得をするのは彼ら彼女らを安く雇える企業だけ、というイメージがけっこう明確に見えてしまっていて、怖い。