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新人賞に投稿し続けた22年、覚せい剤で廃人同然だった姉の最期…作家・樋口有介が語った“人生のどうにもならなさ”

2021/12/17
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 事態が好転したのは2006年のこと。7月に「柚木草平シリーズ」が創元推理文庫で再文庫化され、かつてとは比べ物にならない数の読者が付いた。「肩の力が抜けました。何かがいけないから売れないんだと思っていたけど、自分が面白いと思うものを書き続ければいいんだ、と」。8月には、秩父の山暮らしの思い出を活かした新たな代表作『ピース』を刊行。作家としては上向きだったが、飯能を離れざるを得なくなる状況ができた。

覚せい剤で廃人同然だった姉の最期

「少し前に父親は病気で亡くなっていたんですが、地元に残っていた姉貴が50代で死んだんです。結婚した相手はやくざで、指は欠けているし首から入れ墨が見えている。姉貴も最期は、覚せい剤の後遺症で廃人同然でした。

 母親は半分寝たきりだったので、仕方なく前橋の実家に戻りました。1年ほどは母親の世話をしながら小説を書いていたのですが、さすがに書けない。それで母親はヘルパーさんに頼んで隣り町の伊香保に仕事部屋を借りたり、電車で東京にも出やすい、埼玉の熊谷で暮らしたこともありました。

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 母が亡くなったのは東日本大震災の少し後、2011年の春です。結婚もしていないし子供もいないので、60歳で身内がいなくなりました。東京に戻るのもいいかなと思ったんだけど、秩父にいた頃から海外を貧乏旅行してきたんですよ。小説は、パソコンさえあればどこでだって書ける。生活費が安い東南アジアあたりで暮らすのもありかなと思っていた時に、ふと浮かんだのが沖縄でした。

 一番の決め手は、冬が暖かいこと。秩父の山暮らしのおかげで、冬の寒さはもうこりごりでした。家は平屋で屋上に給水タンクが乗っている、沖縄の典型的な住宅ですね。部屋が4つあって、40平米くらいあるのかな。当初はボロボロでしたけど、床を直して壁をペンキで塗って、庭も手を入れたらなんとか恰好がつくようになりました。

 家を買ったのは初めてです。不動産屋に現金で買うからと言って、300万円値切りました。貯金は吐き出しましたけど、家賃がかからない暮らしって、こんなにラクなもんかと思いますね。欲しいものもないし、外では酒も飲まなくなって女性トラブルとも無縁になった。今までの人生で一番平穏な環境で、毎日小説を書いてます」

「あと15冊ですか。嬉しいですよね」

 人生とは、自分の思うようには運ばないものだし、根本的に「どうにもならない」。そのことを記述したうえで、うずくまるのではなく、しぶとく生き抜く。「どうにかなるさ」と、前を向く。作家が小説で描き続けてきたテーマは、人生のテーマでもあった。

「文學界の新人賞に、22年間落ち続けた経験が大きかったんじゃないかなぁ。結果に落ち込みはするけれど、ぐずぐず引きずったってしょうがない。『さあ次行こう!』と。

 今68歳で、体もガタがくるだろうし、この先書けたとしても10年くらい。今まではだいたい1年で1冊半ペースですから、あと15冊ですか。嬉しいですよね。『15冊しか』じゃなくて、『15冊も』書けるんですから」

(取材・構成 吉田大助、イラスト 市川興一)

ひぐちゆうすけ/1950(昭和25)年、群馬県生まれ。國學院大学中退。88年、『ぼくと、ぼくらの夏』でサントリーミステリー大賞読者賞受賞。90年『風少女』が直木賞候補に。著書に『彼女はたぶん魔法を使う』『ピース』など。

新人賞に投稿し続けた22年、覚せい剤で廃人同然だった姉の最期…作家・樋口有介が語った“人生のどうにもならなさ”

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