「受験に失敗して、夜学に通いました。ただ、夜の学校の雰囲気が好きになれなくて、一学期でやめました。その後は母親の実家がやっていた看板屋の手伝いをしながら、ぶらぶらと。
その時、生まれて初めて小説を読んだんです。母親が本を読む人で、たまたま家にあったカッパ・ノベルスをめくってみたら、面白かった。作品名は忘れましたけど、ミステリです。結城昌治さん、佐野洋さん、笹沢左保さん、どなたかの作品だったかな。
たった1冊読んだだけで、作家になろうと思っちゃった。ただ、なぜか純文学作家を目指してしまいました。いろいろと本を読むようになって、純文学作家ってかっこいいなと思っちゃったんですよね。世間的にも、スターだったんですよ。三島由紀夫や川端康成、大江健三郎や開高健がぶいぶい言わせていた時期で、テレビで目にすることも多かった。
決定的だったのは、『文學界』の巻末にあった『文壇交遊録』というページです。吉行淳之介さんが銀座のバーで、おねえさんとどうしたこうしたという情報が載っていて、『俺も混ざりたい!』と。作家になりたいと言ったら、母も応援してくれました。止めてくれれば良かったのに(笑)」
文學界新人賞に22年間落ち続ける
同級生達とは1年遅れの1967年に、群馬県立伊勢崎東高等学校に入学。授業はそっちのけで小説を書き、文學界新人賞への投稿を開始した。卒業後の1970年に、実家を出て板橋区常盤台にある3畳1間の下宿屋へ。早稲田にある予備校に通い出す。
「早朝の便で、荷物と一緒に引っ越しトラックで東京まで運んでもらいました。とにかく、前橋から離れたかった。家にいて何が一番嫌だったって、父親が刃物を振り回すような人なんですよ。母親との喧嘩が絶えなくて、家の中は常にギスギスしている。姉貴なんかは、中学も卒業しないで家出しました。少年院に入った姉貴に、両親と私とで面会に行ったりしましたね。
20歳ぐらいの頃、血液型に関する知識を得ました。O型の母親とB型の父親から、B型の姉は生まれるけれども、A型の私が生まれることはない。実の父親ではなかったんです。子供の時に両親が喧嘩していたのは、それも原因だったかもしれない。
でも、ほっとしました。父親は本を読まないし、知性とか教養が何もない人でね。あの人の血を継いでいる自分が、作家になりたいったって無理だろうと思っていたから、『あの人が父親じゃないんだったら、なれるかもな』と」
一浪後の1971年、渋谷にキャンパスを構える國學院大学文学部哲学科へ進学。文学のサークルに籍を置きつつ、文學界新人賞への投稿を続けた。半年から1年ほどの間隔で転居を繰り返していたが、途中から同居相手ができた。大学で知り合った2歳年下の恋人だ。