8畳の板の間にベッドと机に本箱、衣装ケース、あとは中森明菜のポスターが1枚。金がないから、物も増えない。ただね、冬が厳しいんです。家の中がマイナス10度くらいになったから、電気こたつに石油ストーブ、電気あんかを買い揃えました。文明の利器の温かさが身に染みてね。
テレビもないし、山奥だから新聞も届かない。情報が遮断された状態だから、自分と向き合わざるを得なくなりました。それが良かったんですよ。『純文学が本当に好きか? 本当に面白いと思っているか?』と突き詰めて考えていったら、違うじゃんと。本当に好きでよく読んでいたのは、青春ハードボイルドのフレドリック・ブラウンであり、ユーモア小説のジェイムズ・サーバー。2人の作品を脳裡に置きつつ、かわいい女の子がいっぱい出てきて、主人公の男の子がモテる能天気な話を書いてみた。それが『ぼくと、ぼくらの夏』なんです」
同作で、第6回(1987年度)サントリーミステリー大賞読者賞を受賞。夢を抱いてから22年後、38歳のデビューだった。
2作目が書けず収入ゼロの状態に
「賞金は100万円でしたが、何万部か刷ってくれたので結構な印税が入ったんです。秩父の山から出て、井の頭公園に面した吉祥寺のおしゃれなワンルームマンションに引っ越しました。ただ、2作目がなかなか書けず収入ゼロの状態に。そりゃあそうですよ。ミステリ作家になるなんて、思ってもみなかったですから。結局、吉祥寺は1年で撤退して、埼玉の朝霞の借家に移りました。そこで2時間ドラマを浴びるように見て、ミステリの作り方を勉強しながら、必死に原稿用紙に文字を埋めていった。まあ、飲み歩いてもいましたけどね。
2作目の『風少女』が出たのは、デビューから1年半経った1990年1月です。直木賞の候補にはなりましたけど、売れなかった。同じ年に3作目の『彼女はたぶん魔法を使う』を出して、『柚木草平シリーズ』ということで続きも書かせてもらえることになったんですが、3作まで書いて打ち切り。作家になっても、ずっと貧乏暮らしです。
女性とはトラブル続きでしたね。付き合っていた相手から逃げたくて、千葉の上総(かずさ)一ノ宮にあるリゾートホテルで1年間暮らしたり。東京に戻って千駄木の団子坂のアパートに住み始めたら、また別の女性とトラブルを起こして、次は代々木に行ったのかな。代々木でもついてまわったのが女性トラブルと貧乏で、また飯能市の借家へ」