魚は、一般的に知的な生き物とは思われていない。脳みそは小さいし、日々の生活の中でも本能的な行動しかとっていないように見える。だが、近年の動物認知研究の進展で、そうした認識が誤りであることが明らかになってきた。たとえば、魚に鏡を見せると、映った個体を自分だと認識すると主張する論文が2019年に発表された。このいわゆる鏡像自己認知の能力は、それまでヒトを含む類人猿の他にはゾウやイルカなど知能が高い一部の動物でしか確認されていなかった。もしこれが魚でも確認できるのならば、魚にも自己意識や、高度な知性がある可能性を示唆することとなる。
そうした、従来の魚類知性に対する常識を覆す論文を発表したのが、本書『魚にも自分がわかる』の著者幸田正典と、その研究室の面々だ。本書では、世界で唯一魚類の自己意識について研究しているという彼らがどのようにこの研究を進め、多方面からなされた批判に応答していったのかが詳細に語られている。本書を読み終えたら最後、魚をこれまでと同じ目で見ることはできないだろう。
しかし、魚が鏡に映った自分を認識できるとして、どうやって証明すればいいのか? 著者らが最初にやったのは、シンプルに水槽に鏡を入れ、その様子を観察することだ。研究対象としたホンソメワケベラは、鏡が入れられた最初の数日間は、鏡の中の自分を攻撃した。その時点では自己認識はできていないのだが、その後数日間かけて攻撃は止まり、鏡を覗き込んだり、鏡と並行に泳ぐだけとなる。
無論それだけでは自己を認識したとはいえない。そこで次に行われたのは、対象の体にマークを入れ、それを鏡で見た時に触るかどうかで自己認識の有無を判断するマークテストと呼ばれる手法だ。魚の場合は体についた嫌な物をこすりつける習性があるから、その行動で確認できる。そして、著者らがホンソメワケベラたちの喉に彼らが気にするであろう寄生虫と同じ茶色のマークを入れて観察したところ、なんと喉を砂で擦ったというのだ! マークなし、鏡なしなど対照群を用意し、マークをつけた時の痛みやかゆみなどが原因でないことも確認している。
これを論文で発表すると、魚類の認知能力の研究者らからは絶賛がとんだが、霊長類学者らからは激しい批判がなされたという。批判者の中には鏡像自己認知研究の第一人者もおり、著名な科学者らをどうやって納得させるのか――といった、研究者社会ならではの熱い戦いが描かれていくのも本書の魅力のひとつ。
この研究は現在もなお進展中で、魚にはヒトに近い自己意識も存在するのか? という新たな仮説も本書では検討されている。読者の魚への認識だけでなく、ヒトや類人猿を特別な存在とする旧来の知性観をも一変させてくれる、濃密なノンフィクションだ。
こうだまさのり/1957年生まれ。大阪市立大学大学院理学研究科教授。専攻は行動生態学、動物生態学、動物社会学、比較認知科学。アフリカのタンガニイカ湖の魚や珊瑚礁魚等を対象に、行動、生態、社会、認知を研究する。
ふゆきいといち/書評家、ライター。『SFマガジン』や『家電批評』などに書評を連載中。ブログ「基本読書」でも書評を執筆している。