父が亡くなった時、私は7歳で、悲しみというよりは、母を失う恐怖を強く感じたことを覚えている。この人を失ったら私は生きていけないのではないかという子供ながらの危機感だったのか。それ以来、母の長寿を毎日祈り続けてきた。
おかげさまでその後、母と私はまるで姉妹のようにランチをしたり、旅行をしたりと何気ない日常を共にし、思春期にはそれなりの喧嘩をすることもできた。それがどれだけ有り難いことか。老いていく姿を見せてくれることさえ長生き故のことなので、私にとっては感謝しかなかった。
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「ピンコロで逝きたい」と強く願っていた母
11月初旬、2週間前に受けた定期検査で健康と診断された母が、急にベッドから起きなくなった。前の週には外食で天ぷらそばを食べていたのだからかなりの急変だ。悪化した腰痛がきっかけとなったのか。92歳の母は驚くほどの早さで弱っていった。
かねてから「ピンコロで逝きたい」と強く願っていた母だが、前夜にご馳走を食べて翌朝亡くなっていたなどという例はほんの一握りであろう。特に健康的に悪いところもない状態のまま、食べられなくなり、飲めなくなり、枯れ木のように生きる機能を閉じていく「老衰」でもそれなりに苦しい時間がある。
母が突然寝たきりになり、食べることも拒否し始めた当初、私が一番戸惑ったのはかかりつけ医も含めて近隣の医者がすべて往診不可能なことだった。緊急事態宣言も解除されていた時期だったので、医院の方針としてそもそも往診はしないという判断である。現状の健康状態を医学的に診断してもらって対策を考えたいのに医者にリーチできない。寝たきりの母を病院に連れて行くには担架で運ぶことしか手段がないので、これは救急車を呼ぶしかないかと頭をよぎったが、「私に何かあったとき、絶対に延命治療はしないで」という母の強い意志を思い出した。